新人選手の獲得、活躍あれこれ(2)

◎歴史を変えたドラフト制度の導入


「出席者」司会・菅谷齊(共同通信)高田実彦(東京中日スポーツ)真々田邦博(NHK)田中勉(時事通信)中野義男(フジテレビ)露久保孝一(産経)島田健(日本経済)荻野通久(日刊ゲンダイ)西村欣也(朝日)山田収(報知)深沢弘(ニッポン放送)

▽巨人V9時代は入団お断り40%以上


司会・菅 谷 ドラフト制度導入の初期は巨人V9の時期にあたる。振り返ると、今では想像もつかない指名選手の入団拒否が相次いだ。1966年から74年までのV9時代、入団拒否が40%を超えている。指名選手はセ、パ両リーグとも500人以上で計1000人を超えた。
島 田 それは意外な数字だ。
高 田 入団拒否というより入団見合わせといった方が正しいのではないか。
真々田 まだ選手に不安があったのかも知れない。
高 田 自分で、まだプロでは通用しない、と判断したケースもあった。
荻 野 自由競争時代の高額な契約金の上限が1000万円となった影響もあったのではないかな。
菅 谷 ざっとした数字だが、セ・リーグの拒否率が40%ほど。パ・リーグは45%近い。球団別では67年のサンケイ(現ヤクルト)は16人指名して10人が断っている。
中 野 16人指名というのはすごい。当時は指名数無制限か。
露久保 獲得できるかどうかより、とりあえず指名しておけ、ということだったんだろう。
山 田 交渉権さえ持っていれば他球団に行かれることはないからね。
菅 谷 指名選手すべてを獲得した最初の球団は大洋(現DeNA)で指名数6人。次が翌年の中日の7人。パはない。
田 中 事前調査が今とは違っていたのだろう。
西 村 自由競争とは違い、各球団とも大変だったのが分かる。
深 沢 初期のドラフト会議の結果は注目されていなかったともいえるね。

▽ドラフト史上最高の逸材がそろった68年


菅 谷 ドラフト制度の意味、面白さを認識させたのは68年だったと思う。史上最高の逸材がそろったときだ。
高 田 それはいえる。

-資料- 阪神・田渕幸一、広島・山本浩二、南海・富田勝(以上法大) 中日・星野仙一(明大) 大洋・野村収(駒大) 東映・大橋穣(亜大) 東京・有藤通世(近大) 巨人・島野修(神奈川・武相高) 太平洋・東尾修(和歌山・簑島高) 阪急・山田久志(富士鉄釜石) サンケイ・藤原真、近鉄・水谷宏(以上全鐘紡)

真々田 その後の球界を背負った大物がそろっているね。
荻 野 星野や田渕が指名に不満を持ったという問題が伝わっている。
高 田 星野は巨人に裏切られた、と言っていた。
島 田 事前に巨人と約束があったということかな。
菅 谷 後年、巨人の監督だった川上哲治から、星野は故障しているという報告があったので指名を回避した、と聞いた。
田 中 それで星野は、巨人は「星」と「島」を書き間違えたのか、と言ったんだ。
中 野 星野は中日に入って巨人キラーになった。ドラマだよね。
露久保 巨人に入団した島野は高校時代に好投手で知られていた。将来性を買ったんだろう。
山 田 田渕は巨人に入りたかった。
西 村 阪神指名の後、巨人が接触したということで騒ぎになった。
高 田 都心のホテルで会ったんだよ。それがバレた。確か、その後、巨人が阪神に田渕のトレードを申し込んだはずだ。
菅 谷 ドラフト会議の後、田渕の自宅で取材したんだが、そのときは社会人野球に行って1年後に巨人の指名を待つことも考えていた。父親がトラブルを避け阪神入りを決めさせたと聞いている。
深 沢 翌69年も谷沢健一(早大―中日)や佐藤道郎(日大―南海)らがいたが、なんといっても目玉は太田幸司(青森・三沢高-近鉄)だったな。幸ちゃんフィーバーはすごかった。
菅 谷 この2年間のドラフト指名で制度がファンに認められたといっていいだろう。やはり逸材がいると世間の見方がいっぺんに変わる。次回は自由競争時代の新人です。(続)