新人選手の獲得、活躍あれこれ(3)

◎新球界を築いた自由競争時代のルーキーたち

出席者:司会・菅谷齊(共同通信)岡田忠(朝日)高田実彦(東京中日スポーツ)真々田邦博(NHK)露久保孝一(産経)荻野通久(日刊ゲンダイ)島田健(日本経済)山田収(報知)財徳健治(東京)

司会・菅谷 今回はセ・パ2リーグ発足の1950年(昭和25年)からドラフト制度が導入される65年まで、いわゆる自由競争時代の新人に焦点を当てたい。まだ戦前に活躍した選手が健在な時代だが、振り返ると、戦後のプロ野球新時代を築いた大物がプロの世界に飛び込んできている。

◇参考資料=主な新人選手(年度はデビュー年、セとパは新人王 *は名球会)
50年=金田正一(享栄商-国鉄)大島信雄(慶大―大塚産業―松竹セ)長谷川良平(半田商―安田商店―安田繊維―新田建設―第一繊維―広島)荒巻淳(大分商-大分経専-別府星野組-毎日パ)蔭山和夫(早大―南海、51年パ)松田清(東京・中野―巨人、51年セ)大友工(大阪逓信講習所―神戸電信局―但馬貨物―巨人)
52年=中西太(高松一―西鉄パ)*山内一弘(愛知・起工―川島紡績―毎日)佐藤孝夫(白石―仙台鉄道局―国鉄セ)
53年=*小山正明(兵庫・高砂―阪神)吉田義男(立命大―阪神)権藤正利(柳川商―大洋セ)豊田泰光(水戸商―西鉄パ)
54年=広岡達朗(早大―巨人セ)*梶本隆夫(多治見工―阪急)*野村克也(京都・峰山―南海)*皆川睦男(米沢西―南海)宅和本司(門司東―南海パ)仰木彬(東筑―西鉄)
55年=榎本喜八(早実―毎日パ)古葉毅(専大―日鉄二瀬―広島)森昌彦(岐阜―巨人)西村一孔(都留―全藤倉―阪神セ)
56年=秋山登(明大―大洋セ)*稲尾和久(別府緑が丘―西鉄パ)*米田哲也(鳥取・境―阪急)土橋正幸(東京・日本橋―東映)*広瀬叔功(広島・大竹―南海)
57年=藤田元司(慶大―巨人セ)木村保(早大―南海パ)
58年=*長嶋茂雄(立大―巨人セ)杉浦忠(立大―南海パ)本屋敷錦吾(立大―阪急)森徹(早大―中日)近藤和彦(明大―大洋)
59年=*王貞治(早実―巨人)*張本勲(広島・松本商―浪商―東映パ)*村山実(関大―阪神)*江藤慎一(熊本商―日鉄二瀬―中日)桑田武(中大―大洋セ)
60年=*高木守道(県岐阜商―中日)堀本律雄(立大―日本通運―巨人セ)
61年=権藤博(鳥栖―ブリヂストンタイヤ―中日セ)山本一義(法大―広島)徳久利明(高知商―近鉄パ)
62年=城之内邦雄(佐原一―日本ビール―巨人セ)宮田征典(日大―巨人)*柴田勲(法政二―巨人)尾崎行雄(浪商―東映パ)*土井正博(大鉄―近鉄)*松原誠(飯能―大洋)
65年=池永正明(下関商―西鉄パ)*大杉勝男(岡山・関西―東映)*衣笠祥雄(平安―広島)成田文男(修徳―東京)

高 田 2リーグになってセ8、パ7とチーム数が15と増えた。前年は1リーグ8だから倍増。戦死したこともあって新人選手が大勢プロに入ったんだ。
 露久保 金田は高校中退だった。それで400勝。
 山 田 先発、リリーフと投げた。だからあれだけ勝てた。
 真々田 戦後の野球ブームで全国に広がった。ほかに娯楽が少なかったこともあったと思う。
 高 田 そうなんだ。学校の野球部に入ろうとしたら希望者の数がものすごかった。なにしろテストされたんだから(笑)

菅 谷 自由競争時代のいい面もあって、テスト生や学校中退者などが入団できた。
 荻 野 野村などはテスト生入団の代表。大友、小山、山内、榎本などもテストの結果と聞いている。
 露久保 野村は高校の先生が各球団に推薦の手紙を出したというね。南海がそれに応えたんだ。
 岡 田 榎本は早実の先輩の荒川博が別当薫監督にテストを頼んだ。はじめは新人獲得枠は埋まっていて難色を示したんだが、テストで打たせてみると、すごい。すぐ契約しろ、となった。
 菅 谷 大友は軟式野球出身で巨人第2期黄金時代のエース。MVPも取ったし、日米野球でニューヨーク・ジャイアンツに完投勝ちしている。
 山 田 大友にしろ、長谷川にしろ、経歴は異色。野球にかけていたんだろう。
 岡 田 小山なんか大洋のテストに落ちたというね。それが300勝投手だ。
 財 徳 大学中退は吉田だね。1年中退で阪神入り。すぐレギュラーだから大した内野手だった。
 島 田 尾崎は夏の甲子園で優勝すると、高校2年生で中退してプロ入り。即20勝。まさに怪童だった。
露久保 甲子園で尾崎と投げ合った柴田は開幕日に先発している。62年のことだが、そのときは開幕日にダブルヘッダーを行い、柴田は第2試合だった。
菅 谷 そうそう。第1試合は同じ新人の城之内が先発している。2試合とも新人投手というのは珍しい。
 財 徳 広島入りした古葉は大学を中退して社会人を経由して入った。プロ入りのルートだったといえるね(笑)。
 高 田 余分に獲得しておけ、というのがあったと思うね。
 真々田 人材が勝負だからね、プロは。
 山 田 野村はバッティング捕手、いわゆるカベで採ったというものね。稲尾もバッティング投手で採用した、と当時の三原脩監督が言っている。

 菅 谷 まさにキラ星のごとし、だ。大学出身、それもプロ球界を背負って立つ大物が次々と入ってくる。生活不安といわれたプロ野球が安定した職業になったのだと思う。ここからの話は次回に。(続)