第11回 「川上監督と長嶋茂雄」

「巨人V9と川上哲治」(11)完

▽君子危うきに近寄らず、引っ越しを進言

当時コーチ兼4番打者だった川上は、1958年(昭和33)のシーズン途中、新人の長嶋茂雄に4番の座を譲って5番に下がった。打順を下げたのは水原監督だったが、川上に不満があるはずはなかった。
 立大で神宮のスターだった長嶋の4番は誰が見ても当然な水原さい配だったが、川上は長嶋の力を認めただけでなく、近い将来、自分が監督になったときの「大黒柱」とみたからである。
 川上コーチは入団したての長嶋を自分の車に乗せて球場へ往復していた。長嶋が四谷駅近くの青葉町に下宿していて、自分が世田谷・奥沢の自宅へ帰る道すがらからである。
 その車の中で長嶋にアドバイスした。
 「君も知っているように、いまの君の下宿は花街の荒木町に近い。君がそこへ遊びに行くとは思わないが、君子危うきに近寄らず、だ。引っ越した方がいいと思うよ」
 といって、自分で下宿を探してきて引っ越しを勧めた。

▽神楽坂は格式が高く、秘密を守る

そして言った。
 「昔、監督(水原)に、遊ぶなら神楽坂にしろよ、といわれたよ。あそこは荒木町より格式が高くて昔からの玄人が多く、病気の心配がないし、口も堅いんだ、と。だから遊ぶならあそこにするんだぞ」
 長嶋は引っ越しについての忠告を守ってすぐ引っ越したが、遊びの方の「忠告」を守ったかどうかは、牧野さんもよくは追跡していないと言っていた。したがって神楽坂のどの店が馴染みで、なんという芸者さんがお相手だったのか分からない。私の数少ない「長嶋関連」に関する取材不足である。残念。
 また、入団早々に「結婚詐欺」の常習者に狙われたことがあったが、水原監督などの計らいで無事に避けた、という記述があるが、これも詳細は知らない。

▽田園調布に新築、はて資金はどこに?

この引っ越しに関して一つ、いかにも長嶋らしい逸話がある。
 それから12年ほど経ったころ、大田区の田園調布に家を新築することになった。そのときである。新しい土地を買って家を造る金額がいくらだったのかは知らないのだが、その金を払うことになって長嶋が困った。
 「はて、金をどこに預けてあるんだったっけ?」
 入団に際して巨人からもらった1800万円という当時破格な契約金を銀行に預けてあることは覚えているが、肝心の預けてある銀行の名前を忘れてしまっていたのだった。
 そこで一緒に入団した立大の同輩・南海の杉浦忠に電話した。たしか同じ銀行に預けたはずだったからだ。杉浦は笑って銀行の名前を教えたという。

▽月夜の千本ノックこそ、超一流への基礎

 長嶋は「目上の人に従順」だった。
 この性格は父親の利さん譲りだった。利さんは千葉県佐倉町の町役場に勤めていた真面目な役人で、最後は収入役になった。
この父親の教えが、
 「ウソをついてはいけない。人さまに迷惑をかけてはいけない」
 という、奇しくも王貞治の父親・仕福さんの教えと同じものだった。
 長嶋が入学したころの立大は、2年先輩の大沢啓二らが「スパルタ練習」を強いる砂押監督の排斥運動を起こしていた。大沢らは新人に排斥運動に参加するように強い働きかけはしなかったが、もし働きかけられたとしても長嶋は参加しなかっただろうと思われる。
 長嶋は排斥運動が起こされている砂押監督の「スパルタの猛練習」に従順に従った。素質を認めた砂押監督は、前にも書いたように「月夜の千本ノック」を長嶋に強いた。自宅に呼んで素振りをさせもした。月が出ていない夜はボールに石灰を塗ってノックした。エラーすると「グラブを外せ」と素手でやらせた。
 後年、長嶋は「あのスパルタ訓練が私をつくった」といっている。長嶋という男は、やることなすこと、その「目標」が正しければ、そのことがいくら厳しいことであっても従容とやる男なのである。

▽長嶋の資質を見抜いた川上の飼育法

川上コーチは長嶋を見て、長嶋が砂押監督からみっちり鍛えられていることや、とやかく言わなくても自分で練習する男だと見抜いたようだった。天才は天才を知るというか、天分を見抜いたのだ。
 とすれば、他の選手のように厳しく練習しろと言って管理する必要はない。むしろ、「首につける縄をうんと長くして、その範囲内で自由にやらせた方がいい」と考えたようである。
 このあたりの川上の「長嶋飼育法」は確かだった。川上という人が、いわれているように「管理至上主義者」でない側面がうかがわれる。(了)