第8回「後楽園球場」(上の3)完-取材日2008年3月上旬-

◎ミスタープロ野球の涙

▽ザ・プラウド・オブ・ヤンキース

長嶋の終わり2シーズンは、73年が2割6分6厘、74年が2割4部4厘だった。
 長嶋が執拗に現役に拘ったのは、“バットマンの性”だろう。
 これまでもチャスには伝説になるほどよく打った。
 彼の現役時代は「勝利打点」の規å定はなかったが、記録の権威、宇佐美徹也さんが割り出したV9時代(65年~73年)の長嶋の勝利打点は259もあるそうだ。
 ちなみに2位の王は209
 でも長嶋は、もっと満足する打撃を求めて、自分が得心してバットを置く終着駅を探したかったのではないだろうか。
 その2年後の74年、ついに来るべきときがきた。
 「5月でしたよ、途中交代してロッカーに戻ったミスターが、『今シーズン限りで引退します』と私の耳元で囁いたんです」
 彼とファンのために心に残るセレモニーにしよう、と小野は思いを巡らせた。
 ふと閃いたのが、読売新聞記者時代の69年、テキサス・ヒューストンに滞在していたときに観た映画の1シーンだった。
 題名は「ザ・プライド・オブ・ヤンキース」。邦題は「打撃王」(ゲーリー・クーパー主演)。ヤンキースでベーブ・ルースとともに活躍したルー・ゲーリックの伝記ものだ。筋萎縮症に犯されたゲーリックが引退を決め、グラウンドでファンに別れを告げてスタンド下の通路に去っていく。死を覚悟した後姿が印象的だった。

▽我が巨人軍は“永久に”不滅です

さて、挨拶をどうするか。
 監督室の川上監督の机の前に小野のデスクがあって、
 「あんた、挨拶をバックアップしてやってくれんかね」
 と川上に頼まれた。
 長嶋と数回、亜季子夫人とも相談した。
 今も語り草の名文句、
 「我が巨人軍は永久に不滅です」
 は、話し合っているうちに誰言うともなく浮かんできたフレーズだという。伝統あるチーム、長嶋が言うことで重みが違う。
 「体も心も巨人に捧げたミスターの叫びに聞こえましたね」
と小野は言う。
 ただ、予定では「永久に」の言葉はなかった。その場で長嶋が付けたのだ。
 第2試合が終わってセレモニーが始まるころには場内は夕暮れだ。マウンドで挨拶する長嶋を2基の照明機で浮かび上がらせる演出を考えた。
 テレビ局に聞くと、そんな強力な照明機はない、という。では、と東宝から映画用のライトを借りて待機した。
 ところが、思ったほど太陽が沈まない。幸い、スタンドの影が場内を暗くし、長嶋が気持ちを込めてゆっくり語る口調で挨拶するころに、何とか黄昏らしい空間ができて、辛うじて照明の光が間に合った。
 日野皓正のトランペットの調べが夜空に流れ、儀式は感動的な雰囲気のうちに幕を閉じた。日本中の野球ファンが泣いた。セレモニーを見守っていた小野もその一人だったという。(了)

「後楽園球場メモ」
1946年10月に後楽園スタヂアムに社名変更。東京都文京区後楽1-3-61。1937年9月11日~87年11月9日。両翼90㍍、中堅120㍍。完成当時は両翼85㍍、中堅114㍍といわれる。収容人員は3万人◆東京砲兵工廠跡地に造られ、初試合はプロ野球の東西オールスター紅白試合。最初に本拠としたのは巨人ではなく、37年に誕生したイーグルス。40年から巨人の本拠となった。巨人のほかに大和軍、大映、日本ハム、中日、国鉄、大毎も使用した◆50年7月にナイター設備を設置。5日の大映対毎日戦がナイター開き。66年には内野エリアが天然芝(ティフトン)となり、芝育成のために電気による地中保温装置が設置されたが、うまく育たず75年から人工芝に◆プロ野球のメッカとして数多くの名勝負が展開されたが、第1号本塁打は竣工式後の紅白戦で放った水原茂(巨人)。46年11月に進駐軍の接収が解除されると翌年の4月6日に全早慶戦が行われ、20日にはプロ野球も第8回読売旗争奪戦で復活。◆プロ野球だけでなく社会人野球の都市対抗のほか、交通の便のよさからコンサート、プロレス、ボクシング、大相撲本場所の興行にも使われた。(了)