日本一の名将は誰か?(3)

第3回 強烈な印象を残す個性派監督

出席者 高田実彦(東京中日スポーツ)、真々田邦博(NHK)、小林達彦(ニッポン放送)、財徳健治(東京新聞)、露久保孝一(産経新聞)、山田収(スポーツ報知)、島田健(日本経済新聞)、菊池順一(デイリースポーツ) 司会・荻野通久(日刊ゲンダイ)

監督の評価は優勝回数や勝利数などだがそれだけではない。選手育成やチーム作りに手腕を発揮、あるいは従来の球界の常識を覆す戦法、考え方を吹き込んだ指揮官もいる。そんな個性派監督で印象に残るのは・・。
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司会 「個性派監督というと、まずだれを思い浮かべますか?」
高田 「近藤貞雄監督(中日、横浜、日ハムで計8年間、リーグ優勝1回)ですね。投手の肩は消耗品という考えで、先発、中継ぎ、抑えというピッチャーの分業制を提唱、実践した。今の投手リレーのやり方につながっている」
真々田「アイデアマンだったですね。大洋監督時代は屋敷要、高木豊、加藤博一の俊足3人を”スーパーカートリオ”と名付けて大いに走らせた」
菊地 「半面、気が短い。中日監督時代、試合中にショートを守っていた宇野勝のところにベンチから飛び出していって、グラウンドでケンカしたのを見たことがある。宇野が何かミスをしたのだろうが、普通は選手がベンチに戻ってから怒るでしょう」(笑い)
小林 「監督時代か評論家の時だったかは定かではないが、近藤さんに勧められてゴルフの会員権を買ったことがある。こんなことは後にも先にも初めてですよ」(笑い)
司会 「近藤監督の系譜につながるのが権藤博監督(横浜で3年間、リーグ優勝1回、日本一1回)ですね。中日時代は監督と投手コーチだった」
真々田「横浜時代はミーティングはなし。送りバントはしない。中継ぎのローテーション制を確立するなどユニークな考えを持っていた。選手を大人扱いしていた」
露久保「野球はケンカだ、とハッキリ言っていました。”KILL OR BE KILLED”。やるか、やられるか、ですね」
山田 「投手コーチとしては非常に優秀な人と思います。一家言を持っていた。チームを統率する能力は分かりませんが、リーグ優勝、日本一になったときは選手が投打ともに揃っていた」
司会 「そもそもチームを統率しようとする考えがあったのかどうかですね。横浜監督時代、5番の駒田徳広(現四国リーグ高知監督)が打撃不振に陥り、コーチ陣が打順を下げましょう、と提案したとき、打順を動かすなら4番を打たせる、と言ったそうです。選手個々のプライドややる気に配慮をしたのでしょう」

▽「指揮官」より「策士」が似合う根本監督

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財徳 「根本陸夫監督(広島、西武、ダイエーで計11年間、リーグ優勝、日本一なし)もユニークな人。ただ、根本さんはチームを勝たせることよりチーム作り、選手育成に優れていた。組織論の人だったと思う」
小林 「広島監督時代に関根潤三、広岡達朗、小森光生、山内一弘をコーチに招へい。選手を厳しく鍛えて、1975年(昭和50年)のカープ初優勝の土台を作った」
露久保「監督としての個性はあまり感じられなかった。出さない。話をしても具体的なことは言わない。投手が打たれても、打者がチャンスで打てなくても、”そういうこともあるよ”。ただ、子供の野球ではない、大人の野球をやっている、とよく話していたのを覚えている」
山田 「西武時代は自分の後釜に広岡(達朗)さんを監督に据えて、常勝チームにした。ダイエー(現ソフトバンク)では王(貞治)さんを監督に招き、やはり優勝できるチームにした。自分で後任を探し、自分で口説いて連れてきている。根本さんしかできないでしょう」
小林「Jリーグが発足した1993年(平成5年)、根本監督(当時ダイエー)にJリーグの話を聞かせろ、と呼ばれたことがあった。Jリーグも取材していたので。その時、ひょいと机の上を見たら、Jリーグの資料が山のように積まれていた。プロ野球は大丈夫ですか?、って思わず聞いたら、バカヤローと怒られた」(笑い)
菊地 「これは聞いた話ですが、担当記者には、君たちの書いたものは読まない、って
よく言っていたそうです。ところが遠征に出る駅の売店で、発車間際にスポーツ紙をごっそり買っていた」
財徳 「なかなか本当の姿を見せなかったが、実は野球に関してすごくよく知っていたのかも知れない」
露久保「西武監督時代はドラフト外で松沼博久、松沼雅之を巨人との争奪戦の末、獲得した(注1)。名電高(現愛工大名電)の工藤公康(現ソフトバンク監督)も社会人の熊谷組に行く話をひっくり返して入団させた(注2)。監督というより策士ですね」
山田 「そういうときはあの手この手で相手にも見返りを与えるというか、いい思いをさせる。本来は監督ではなく、フロントの仕事ですよ」

▽パフォーマンスに長けた金田監督

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司会 「仰木彬監督(近鉄、オリックスで計14年間、リーグ優勝3回、日本一1回)はどうですか?」
高田 「鈴木一朗の登録名をイチローにしたのが仰木監督。イチローの振り子打法、野茂英雄のトルネード投法…。普通なら直したくなるでしょうが、選手の個性を尊重する監督だね」
菊地 「おかげで前任の土井正三監督が割りを食ってしまったが、1年目にイチローを二軍に落としたのは、巨人の川上哲治監督が新人の高田繁を二軍に落としたのを参考にしたと聞きました」(注3)
高田 「プロ1年目に順調に活躍していた高田をちょっとしたミスから、川上監督は1週間、二軍落ちさせた。このままいったら、プロをなめてしまうのでは、と思ってのことだった」
山田 「以前、土井さんに聞いたら、当時は外野手のレギュラーが決まっていた。イチローを一軍に置いても出番が限られる。それで実戦を多く積ませるために敢えて二軍に落とした-と話していました」(注4)
財徳 「選手の個性を見抜く力があった。放っておいても大丈夫なときは選手任せにし、ある程度のレベルに達したら、何か手を差し伸べる。だから選手の信頼は厚かった」
山田 「イメージとは違いますが、実際はすごくデータを調べ、それで選手を起用していたと聞いた。オリックス監督時代は、”猫の目打線”で試合ごとにスタメンを変えていたが、相手投手との相性などデータを重視したからでしょう」
露久保「金田正一監督(ロッテで計8年間、リーグ優勝1回、日本一1回)も個性的だった」
小林 「あるとき、試合前のベンチで、きょうは巨人戦があるのか、と聞かれたことがある。あります、と答えると、とたんに口が重くなった。ない、というとペラペラしゃべる。巨人戦があると何を言ってもスポーツ紙の一面にならない。だからマスコミが喜びそうな話は巨人戦がないときにしよう-と思っていたようです」
菊地 「近鉄戦でロッテの園川一美が外国人選手にぶつけ、追いかけ回されたことがある。その時、グラウンドに飛び出していって、スパイクで選手の顔に蹴りを入れていた」(注5)
島田 「金田野球といわれてもあまりピンと来るのもがないが、パフォーマンスは沢山あるし、すぐ思い浮かぶ」
真々田「キャンプ初日を敢えて1日ずらして、2月2日にしたこともあった。試合や采配よりグラウンド内外でのパフォーマンスや話題作りに長けた監督とも言える」
司会 「次回は外国人監督、現役監督に話しを進めたいと思います」(続)
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(注1) 1978(年昭和53年)のドラフトで松沼博久(東京ガス)、松沼雅之(東洋大)の兄弟投手を巨人との争奪戦の末、獲得した。
(注2) 1981年(昭和56年)のドラフトでプロ拒否、社会人野球の熊谷組入りを表明していた工藤公康をドラフト6位で指名、意させて入団させる。
(注3) 1968年(昭和43年)の巨人・広島戦で巨人の新人、レフト高田繁とショート土井との間の打球が落ち、ポテンヒットとなる。試合後、川上監督は高田を二軍落ちさせた。「何もしなかったら高田が野球をなめてしまう。巨人を担う選手なので、敢えて二軍に落とした」と後に語っている。
(注4) 1992年(平成4年)イチローが入団時のオリックスの外野陣は高橋智、本西厚博、藤井康雄がレギュラーだった。控えに柴原稔がいた。
(注5) 1991年(平成3年)5月19日、秋田市営球場のロッテ・近鉄戦で園川一久がジム・レーバーに死球。激昂したレーバーが園川一美を追いかけ、両軍入り乱れて乱闘になる。