江夏豊インタビュー(4)(菅谷 齊=共同通信)

◎先発と抑えの“二刀流”で成功した男のピッチング

中学陸上部の砲丸投げ選手が高校に入って野球にのめり込む。しかし、野球王国の関西には、想像を超える投手があちこちにいる。江夏にとってことばかりだった。

▽鈴木啓示、速かったなあ

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-高校時代、すごいと思ったピッチャーは…
江夏「鈴木さんだったな」
-兵庫育英の鈴木啓示のことだね
江夏「そう。1年先輩でね、速かったなあ。練習試合をやって投げ合った。延長15回引き分けだった」
-三振数は…
江夏「こっちは15ぐらい取ったと思う。ところがあちらは27個かな」
-15三振が目立たなかったわけだ
江夏「打席に立ったけど、まったくかすらなかった。差がありすぎて悔しさなんてなかったもの」(笑)

鈴木は1966年、ドラフト2位で近鉄に入団。剛球左腕と期待され、瞬く間にエースとなり、2年目から5年連続を含め7度の20勝をマーク。最多奪三振8度。通算317勝は史上4位。以後、300勝投手は出ていない。
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-世間は広い、と。
江夏「世の中にあんな速いボールをほうるピッチャーがいるんかいな、とあきれたことを覚えている」
-それで、気持ちを引き締めた?
江夏「というより、どうしたらあんなボールを投げられるようになるのかな、と考えたね」
-でもスピードだけなら負けなかったのでは…
江夏「こちらは、ただほうるだけ。ピッチャーの体を成していなかった」

▽出世のピッチング、名門浪商を完封 

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高校でのデビュー戦はひどかったものの、練習の成果が少しずつ出てきた。江夏の存在が知られるようになったのは、全国優勝の実績を持つ名門高を破った投球である。
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-2年生になってから名前が知られるようになった、と聞いている。
江夏「2年生のときだったな。浪商をシャットアウトしたんだ」
―当時の浪商といえば、関西では最強チームだった
江夏「あのころ、浪商に勝つなんて夢にも思っていない。天下の浪商、だよ。勝ったなんて、投げた本人が一番びっくりしたもの」

浪商は甲子園常連校で、1966年夏の甲子園で全国優勝したばかり。エースは2年生の怪童・尾崎行雄。バックには高田繁(巨人)をはじめ、のちにプロ入りする選手がそろっていた。
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-大騒ぎだったろうね
江夏「浪商はさ、無名校に完敗したというんで監督がクビになった、と聞いた。これにも驚いた。伝統校っていうのはすごいんだな、とびっくり」
-大阪学院に江夏あり、となったんだ
江夏「そのクビになった監督が大阪学院大に指導者として来た。こちらは付属校だ。その関係でアドバイスを受けるようになった。世の中はほんとうに分からないねえ」

▽進学からプロへ、クジで人生変わる

3年生の夏、大阪府予選で大阪学院は勝ち進む。快進撃、と話題を呼んだ。しかし、準決勝で0-1の敗戦。甲子園の夢は立たれたが、江夏の投球が話題となった。プロ野球のスカウトがネット裏に集まり、快速球に五重丸をつけた。
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-阪神からドラフト1位指名されたときは…
江夏「信じられなかったよ、ほんとうに」
-まさか、という感じ?
江夏「その通り。プロ野球なんてほとんど頭になかったからね」
-試合のときスカウトに気がつかなかった…
江夏「後から、そういえばネット裏にそれらしき人がいたな、と。プロ入りの意識がなかったわけだから、その人がどんな人か、まるで関心がなかった」
-進路は別に…
江夏「ある大学から声がかかっていたので、そこに進学して野球をやるつもりでいた。それがたった1日のクジで人生が変わった」(笑)

阪神入りした江夏の背番号は「28」。監督は藤本定義。投手使いの名人といわれた名将である。(続)