第9回「後楽園球場」(下の1=取材日2008年6月上旬)

◎世界のホームランキング・王 貞治

 
あの伝説的なホームランは、王貞治にしては、信じられないようなウラがある。
 「もがき苦しむ絶不調だったからこそ打てた」 
 打った本人はそう言うのだ。
 1971年10月15日、後楽園球場。1勝1敗で迎えた巨人対阪急の日本シリーズ第3戦で王が阪急のエース、山田久志から奪った逆転サヨナラ3ランのことだ。
 時間をその場面に巻き戻してみる―。
 山田の投球に翻弄されていた巨人は、1点を追って9回裏を迎えた。投手関本四十四の代打萩原康弘が三振。柴田勲は四球で歩いたが、柳田俊郎が右飛。長嶋茂雄に打席が回った。
 阪急の西本幸雄監督がマウンドへ行く。
 「ヤマ、結果を考えるな。思い切っていけ」
 そう檄をとばしたが、長嶋は山田のシンカーに泳ぎながら遊撃右をゴロで抜いた。俊足の柴田が3塁を陥れ、2死1、3塁とした。

ここで登場したのが王である。山田は力勝負に出た。8回まで巨人打線を安打2、飛球15と完全に抑え込んでいた。王に対しても三振、三飛、遊ゴロと力負けしていなかった。
 「今日の王さんは振れていない」
 強気の山田は王の不振を見てとった。だから「攻め」に出ても不思議ではない。
 初球は内角のボールから入った。2球目は真ん中の直球でストライク。1-1後、運命の3球目、捕手、岡村浩二のサインは、
 「内角膝元の直球でストライク」
 本塁打王15回、打点王13回、首位打者5回と打者の頂点を極めた王に、もし、ウイークポイントがあるとしたら「膝元の速球」しかない。山田、岡村バッテリーの選択に間違いはなかった。
 が、この速球に王のバットが反応した。打球はライナーとなって右翼席へ飛び込んだのだ。勝負はこの一発で決まった。王は両手を広げて走り出す。マウンドには膝をついたまま動かない山田がいた。王31歳、山田23歳の対決だった。
 この5月15日、改めて「あの瞬間」を検証したくて福岡ヤフードームに王を訪ねた。試合前、選手たちのウォームアップを横目に、ネット裏の小部屋で王はこう切り出した。
 「真ん中低めの直球でしたよ。下手投げ投手の浮き上がる球筋ではなく、地面を這うような、ね」
 投げた山田は「内角低め」と言う。打った王は「真ん中」と見た。二人の一流プロの目にわずかなズレが出来たのは一体なぜなのだろう。(続)

「後楽園球場メモ」

1937年に完成した後楽園球場は、当時、東京にプロ野球専用球場建設の動きが活発化し、目黒の競馬場の跡地を予定していたが、東京砲兵工廠が小倉(北九州)へ移転したため、その跡地に建設された。「後楽園」の名称は、水戸藩上屋敷の庭園の名にちなむ。球場の建設地は水戸藩邸があったところで、明治に入り砲兵工廠が設けられた◆後楽園球場と東京ドームの位置関係はちょうど背中合わせの向きにあたり、後楽園球場のバックネット裏が東京ドームの21番、22番ゲート辺りとくっつく感じだった。後楽園球場の入り口付近にあった野球博物館も今はドーム内に移転している◆少年時代の王貞治は兄鉄城に連れられてよく後楽園球場に通った。「後楽園はボクの憧れの球場だった」という。王のプロ初本塁打はその後楽園球場。デビュー以来27打席目の1959年4月26日、対国鉄6回戦で村田元一から奪ったもので、プロ初安打が本塁打とはいかにも王らしい。一本足打法転向後の第1号は62年7月1日の対大洋戦(川崎球場)だったが、後楽園球場での第1号は62年7月19日の対中日16回戦で西尾慈高から◆王のちょっぴり自慢の一発は入団1年目の59年6月25日、天覧試合の対阪神11回戦(後楽園)で小山正明から打った第4号。これで小山をKOし、代わった村山実から長島茂雄がサヨナラ本塁打した。これがONアベック弾の第1号。「あの試合、ボクも少しだけ貢献してるんですよ」。普段は自慢話をしない王もこの本塁打は鼻高々だ。感動的だったのは、77年9月3日、対ヤクルト23回戦(後楽園)で鈴木康二朗から放ったハンク・アーロンの記録を抜く通算756号本塁打したとき。観戦していた父仕福、母登美をグラウンド内に招き入れ記念のフラワープレートを贈った。(了)