第9回「後楽園球場」(下の2=取材日2008年6月上旬)

◎世界のホームランキング・王 貞治

▽日本シリーズ史に残る王の逆転3ラン

「当時のボクは大スランプでしてね。ペナントレースの後半は26打席ヒットがなかった。あの日も3打席凡退。本塁打なんて全く頭になかった。長嶋さんが一、三塁にしてくれたので、何とかして1点取ろう、同点にしよう、その思いだけでしたよ」
 調子が悪いからこそボールに喰らいついていった王の必死さが、内角球を甘いコースに見せ、ジャストミートを引き出した、ということだろう。
「ボクに幸いしたのは一、三塁で山田君がセットポジションで投げたことだね。振りかぶって投げると、動作が前半はゆったりとしていて途中から急に早くなる。タイミングが取りずらいんでね」
シリーズの流れはすっかり巨人に傾き、4勝1敗で巨人が日本一に輝いた。
「しかし、野球っておもしろいよね。あのホームベースの43㌢の幅にいっぱいドラマが埋もれているんだから」
 当時阪急の総合コーチで後に監督として3度日本一になった上田利治は、
「あれ以来、ヤマは一回り大きくなったよ。シンカーを覚えるなど投球にも幅が出た」
 という。翌春の高知キャンプで猛練習する山田がいた。3年間で32勝していた勝ち星も、その後、252勝を積上げて通算284勝をマークした。「栄光に近道なし」。山田の座右の銘である。

▽ルース、アーロンを抜くアーチで万歳ポーズ

ところで、前人未到の868本塁打した王は、本拠地の後楽園球場で413本の本塁打を放っている。これに日本シリーズの11本、オールスター戦の1本を加えると都合425本のアーチを懸けたことになる。
が、派手なポーズで喜びを爆発させることは珍しかった。
「兄に言われていたんでね」
早実1年のときエースの王は完封勝ちしてはしゃいでいた。そのとき兄の鉄城(外科医)からベンチ裏に呼ばれて注意された。
「負けた相手のことを考えてみろ」
と。このときの叱責でむやみに騒ぐことを止めた。
「口はばったいことを言わせてもらえば、沢山打ってるんでね。いちいち大げさにガッツポーズなんかしていられない(笑い)。投手と打者の勝負は打った瞬間で終わってるんですよ」
 両手で万歳したのは、76年10月11日の対阪神戦でベーブ・ルースの記録を抜く通算715号、77年9月3日の対ヤクルト戦でハンク・アーロンの記録を破る756号、さらに800号や最後の本塁打となった77年10月12日の対ヤクルト戦で神部年男から奪った868号くらい。それに山田から奪ったあのとき。万歳ポーズは“後楽園球場限定”だったようだ。(了)

「後楽園球場メモ」

1937年に完成した後楽園球場は、当時、東京にプロ野球専用球場建設の動きが活発化し、目黒の競馬場の跡地を予定していたが、東京砲兵工廠が小倉(北九州)へ移転したため、その跡地に建設された。「後楽園」の名称は、水戸藩上屋敷の庭園の名にちなむ。球場の建設地は水戸藩邸があったところで、明治に入り砲兵工廠が設けられた◆後楽園球場と東京ドームの位置関係はちょうど背中合わせの向きにあたり、後楽園球場のバックネット裏が東京ドームの21番、22番ゲート辺りとくっつく感じだった。後楽園球場の入り口付近にあった野球博物館も今はドーム内に移転している◆少年時代の王貞治は兄鉄城に連れられてよく後楽園球場に通った。「後楽園はボクの憧れの球場だった」という。王のプロ初本塁打はその後楽園球場。デビュー以来27打席目の1959年4月26日、対国鉄6回戦で村田元一から奪ったもので、プロ初安打が本塁打とはいかにも王らしい。一本足打法転向後の第1号は62年7月1日の対大洋戦(川崎球場)だったが、後楽園球場での第1号は62年7月19日の対中日16回戦で西尾慈高から◆王のちょっぴり自慢の一発は入団1年目の59年6月25日、天覧試合の対阪神11回戦(後楽園)で小山正明から打った第4号。これで小山をKOし、代わった村山実から長島茂雄がサヨナラ本塁打した。これがONアベック弾の第1号。「あの試合、ボクも少しだけ貢献してるんですよ」。普段は自慢話をしない王もこの本塁打は鼻高々だ。感動的だったのは、77年9月3日、対ヤクルト23回戦(後楽園)で鈴木康二朗から放ったハンク・アーロンの記録を抜く通算756号本塁打したとき。観戦していた父仕福、母登美をグラウンド内に招き入れ記念のフラワープレートを贈った。(了)