第19回 奇跡のプロ野球スタート(菅谷 齊=共同通信)
▽ルース、暗殺事件、戦争勃発
ベーブ・ルースの豪打に全国のファンが驚き、その余韻に乗じたように巨人の前身、大日本東京野球倶楽部が誕生。日米野球が終わった直後の1934年(昭和9年)12月の終わり、世の中が慌ただしい年末のことである。
このころ、日本の世情は不安定そのものだった。昭和初期の歴史を振り返ってみる。
1927年 日本、軍縮会議で決裂 中国の排日運動激化
1930年 浜口雄幸首相狙撃事件
1931年 満州事変
1932年 5・15事件で犬養毅首相暗殺
1936年 2・26事件で高橋是清ら暗殺
1937年 日中戦争勃発(盧溝橋事件)
こんな最中に、巨人はアメリカ遠征に出掛け、34年の2・26事件の直後に、初のリーグ戦が行われたのである。
国際情勢と切り離して日本のプロ野球がスタートしたわけで、今から考えると、国民の驚くべき理解に驚く。現在では到底考えられない出来事だった。
「国際関係はオレたちに任せておけ」
「プロ野球を作って大いに楽しんでくれ」
こんな感じの政府だったのではないか。軍部に自信があったのだろうか。
▽呼び名は“職業野球”、選手集めに苦労
野球倶楽部を創立したのはいいのだが、プレーする選手たちは、素直に将来を信じたわけではなかった。
翌35年1月、大日本東京野球倶楽部は静岡に選手たちを集めた。トレーニングを始めるためで、全選手がそろい、一致団結してスタートを切る思惑だったが、そうはならなかった。主将ら4人が顔を見せなかった。
主将の久慈次郎は「家庭の事情」。三原脩と中島治康は「入営」のため。夫馬勇の場合は「家族が反対」というものだった。
チーム編成は、世間により関心を持ってもらうため、東京六大学リーグで活躍した、あるいはしている選手と、いまでいう甲子園の高校生スター選手をターゲットにしていた。久慈ら4人は神宮球場の人気選手だった。
「海のものとも山のものとも分からない、職業野球団だろ」
こういう評価が正直なところだった。ボールとバットでメシが食えるのか、と。ルースら大リーガーにあこがれはしたが、いざ生活となると二の足を踏むのは当たり前のことだった。
倶楽部は慌てた。とりあえず主将に副主将の二出川延明を昇格させ、副主将に矢島粂安を充てた。抜けた4選手の補充に迫られ、スカウト役の鈴木惣太郎は情報集めに奔走した。(続)