第20回 新たな日本球界とルースの引退劇(菅谷 齊=共同通信)

▽初のキャンプ、メンバーそろう

大日本東京倶楽部は創立して3週間後の1935年1月中旬、静岡でトレーニングを始めた。創立のとき、米国遠征の予定も発表しているから、選手たちの意気込みは大変なものだった。
 キャンプの1日のスケジュールは次の通りである。
・ 起床 7時30分
・ 朝食 8時
・ 準備運動 1時間ほど
・ 昼食 10時
・ 練習 11時-16時
・ 夕食 17時
・ ミーティング 19時から2時間
・ 就寝 11時
朝食のあと2時間後に昼食というのが現在と違う。今は練習の合間に摂る。時期が冬なので、最も温かい時間に集中して練習を行うための措置だったようである。
 欠員の4名が補充されたのは、キャンプに入って間もなくだった。
 明大出身の田部武雄内野手、門司鉄道管理局の原正清投手に中山武(享栄商)内堀保(長崎商)の両捕手である。
 田部は天才肌の俊足選手で、米国遠征で大活躍した。

▽ヤンキース監督の夢破れたルース

 そのころアメリカの野球界では歴史の転換期に遭遇していた。あのベーブ・ルースがヤンキースから放出されたのである。
 34年、日米野球で来日しているときに、その出来事は進んでいた。
 「ベーブはもういらない」
 この年のルースは22本塁打に終わっていた。前年の34本から10本以上も減り、2年前の41本からは半減と、力の衰えは明確だった。
 実は、ルース自身、それが分かっており、現役を退く意思を持っていた。と同時に“ヤンキース監督”を望み、球団に伝えていたという。日本各地で試合をしているときはそんな状況にあった。
 帰国後、ルースは売られた。ボストンに本拠を置くナ・リーグのブレーブスがその場所だった。ルースは初め、ボストン・レッドソックスに入団し、その後、同じア・リーグのヤンキースにトレードされた。
 「デビューしたボストンに返した」
 これがヤンキースの言い分だった。リーグが違うから、ヤンキースはブレーブスと対戦することはない。ワールドシリーズに両軍が出ない限り、顔を合わせることはなかった。
 ルースは35年、ブレーブスで28試合に出場、6本塁打だった。ただし、1試合3本塁打を放ち、13安打のうちおよそ半数がホームラン、とルースらしさを示してバットを置いた。
 この年、日本では大日本東京倶楽部が創立され、新しい野球の時代に向けて本格スタートした。そのきっかけとビジネスを確信させたのがルースであることは間違いない。(続)