「先駆者の勇気」-(佐藤彰雄=スポーツニツポン)

 シーズンを終えたプロ野球界は今、来季に向けた選手たちの動きに注目が集まっています。
 MLB(米大リーグ)が身近になり、選手たちの選択肢に“海外”が容易に入り込むようになった近年、このオフもフリーエージェントを宣言した秋山翔吾(西武)が、ボスティング・システム(入札制度)で筒香嘉智(DeNA)が、それぞれMLB挑戦を宣言しました。
 日本人選手たちのこうした海外志向を考えるとき、やはり、1964年9月に日本人メジャーリーガー第1号となった村上雅則がいて野茂英雄がレールを敷き、イチロー、松井秀喜らに活躍の場を与えたのだなァ、と思います。

▽海外雄飛を胸に…

 今や日本人選手のパワーや技術が本場でも欠かせなくなったことを思うにつけ、最初に手を挙げた先駆者の、未知の領域に立ち向かった勇気と決断には、ただただ頭が下がる思いです。
 プロゴルフ界では、1977年にスポット参戦の樋口久子(現・JLPGA顧問)が全米女子プロ選手権を制し、その後、岡本綾子が米国常駐でツアーに参戦するという形をつくり上げ、日米間のレールを敷いています。
 樋口が全米女子プロ選手権に勝ったとき、米国人のロッカーは日本人に優勝を持っていかれた悔しさで蹴りまくられボコボコだったという逸話が残されています。
v岡本の米国常駐案にしてもやはり、スーパースターが国内ツアーにいなくなるということは、大会に欠かせないスポンサー筋に嫌がられ、今のように簡単に海外へ…というわけにはいかない労苦を背負いました。

▽自らが選ぶ“高み”

 プロ野球界からは離れますが、かつて総合格闘技界にこんなことがありました。今、米国で人気の格闘技リング「UFC」が発足したばかりの1993年-。
 そのリングは現在のようにスポーツとしてのルールが整備されておらず、世界中から“ケンカ屋”が集まる恐怖の場でした。
 そのリングに日本人第1号として参戦したのが大道塾の空手家・市原海樹(みのき)で1994年3月の第2回大会に出場。ホイス・グレイシー(ブラジル)と戦って敗れました。
 市原とこの恐怖のリングを結ぶ“橋渡し役”となったのが作家の夢枕獏氏。彼はそのリポートでこう記述しています。
「試合前の恐怖感が大きければ大きいほど、その領域に踏み込むための門は狭くなり、領域の頂は高みを増していく。人は他人によって選ばれるのではない。自らが自らを選ぶのである。市原は既にそういう領域に踏み込んでいた」
 プロ野球でもプロゴルフでも、また他のスポーツジャンルでも、先駆者にはしびれるような志の高め方があり、身を切る緊張感に包まれていたと思います。
 今、後に続く者たちは、それを忘れてはならないと思います。(了)