第1回 「平和台球場」取材日2006年8月上旬

▽魔術師と野武士たち

「京子(きょうこ)」ちゃん、と誰もがそう呼んだ。戸籍上は「みやこ」と読むのだが、本人もいちいち訂正しない。二十歳から23年間、西鉄ライオンズの場内放送を務めた今泉京子である。
 「西鉄の選手は皆さん個性の強か人が多くてですね、平和台球場のファンも熱か人ばかりでした。そりゃもう、毎試合が戦争ごとみたいでしたよ」
 ゆったりとした博多弁だ。
 平和台球場は知将・三原脩が率いる「獅子たち」の居城だった。彼らの栄華の頂点は1958年(昭和33)ではなかっただろうか。ペナントレースで南海との最大差11.5ゲームを大逆転して優勝。巨人と争った日本シリーズでは3連敗から4連勝の離れ業をやってのけた。
 奇跡は1度しか起こらないというが神がかった軍団だった。人々は三原を「魔術師」と呼び、個性豊かな選手たちを「野武士」になぞらえた。
 魔術師は何を仕掛け、野武士たちはどう応えたのか―は、58年の日本シリーズに両者の係わり合いが見て取れる。
 1勝3敗で迎えた第5戦、西鉄は先発の西村貞朗が1回表にいきなり3点を失う。と、三原は4回から稲尾和久を投入した。もう1点もやれない、3点で抑えておけばまだ勝ち目がある、この瀬戸際で頼れるのは稲尾しかいない。稲尾は前日に完投勝利を収めたが、試合直後にコーチの川崎徳次から「明日も頼むぞ」と、そっと耳打ちされていた。

▽稲尾連投にオヤジの一人芝居

当時は稲尾の連投など当たり前。ペナントレース中に三原がこう囁いたことがある。
 「どう? サイちゃん、肩の調子は。いける?」
 稲尾の目が細いことから仲間たちは、「サイ」になぞらえてそう呼んでいた。
 南海を追撃していた公式戦の終盤ではこんなことがあった。試合前の練習で三原が稲尾にさりげなく聞く。
 「今日は何処で観る?」
 前の日に稲尾は完投しているから、この日は登板の予定はない。
 「カメラマン席かどこかで観ます」
 「あっそう。じゃあベンチで観てもいっしょだ」
 監督命令ではないが言葉の意味はベンチに居ろ! という謎かけだ。
 終盤、試合がもつれだす。頭を抱えてベンチをうろついていた三原が、稲尾の背後にあるブルペンへの連絡電話を掴んだ。
 「ピッチャー、誰かいないか。……そうか……、困ったなぁ」
 大きな声である。このやり取りを耳にしては稲尾も素知らない顔をしていられない。責任感の強さがこんなときにでる。肩を作るため一塁側のブルペンへ行くと川崎徳次が言った。
 「サイ、どうした。オヤジに言われて来たのか」
 稲尾は一瞬その言葉の意味がわらない。
 「アレッ? 話が通じていないよ。では、あの電話は、ハハァ……、オヤジの一人芝居だったのか」。
 話を問題の第5戦に戻す。稲尾が巨人打線を抑え、7回に中西太の2ランが出て1点差とした。

▽蹴っ飛ばされた絶好調豊田の送りバント

そして9回、ここでも三原の行動が面白い。先頭の小淵泰輔が三塁線へ痛打して長嶋茂雄のグラブを弾く二塁打で出た(代走滝内弥瑞生)。長嶋と監督の水原茂が「ファウルだ」と激しく抗議した。勿論、受け入れられるはずがない。ネクストバッターサークルにいた豊田泰光も一瞬、「ファウルかな」と思ったそうだ。豊田の位置から三塁線は一直線で見通せる。それほど際どい打球だった。
 ここで打者は3番の闘将・豊田。本来は2番が定位置だが、4番の大下弘が極度の不振で第4戦から豊田が3番を打っていた。
 三塁コーチャーボックスの三原がつかつかと歩み寄ってきた。「トヨ、打て!」。相手ベンチに丸聞こえの大声で叫んだ。豊田は驚いた。
 「エッ、オヤジさん、ここはバントでしょうが!」
 走者を三塁へ進めて、ひとまず同点を狙うのが常識ではないのか。
 いつだったか、ヤフージャパンドームの記者席で評論家として来ていた豊田に尋ねた。
 「あのバントはサインだったの?」
 「いや、オレの判断だったよ。オヤジさんは『打て』とは言ったが大事な場面だろ。何かサインが出るに違いない、とじっと待っていたんだ。指が立てば『打て』、丸を意味する動作だと『バント』なのに、なかなかサインを出さない。何してんだと思っていたら、しばらくしてオヤジがやっと右の手の平で胸を触れた」
 手の平が体のどこかに触れると『任せる』のサインだった。そこで豊田はまず同点とバントを選択する。バントは得意だった。豊田は初球を三塁前に鮮やかに転がした。
 三原のあの大声はいったい何だったのか。稲尾は生前、彼らしくこう解説してみせた。
 「『打て』はオヤジ特有の謎かけだよ」
 このシリーズの豊田は前の打席まで14打数7安打6打点、本塁打を4本も打っていた。
 「その絶好調男に、いきなり『バント』を命じると、『なぜオレがバントを』と剥れるかも知れなし。日頃から安易な妥協を嫌う男だからね。『打て』と言えば『ここはバントだろう』と反発するはず。オヤジはトヨさんの性格を見抜いて逆手を取ったんだよ」
 自分が納得して選んだプレーはそれだけ成功率が高い。
 ところが豊田がベンチに帰ると大先輩の大下から向こう脛を思い切り蹴り上げられた。
 「なぜ打たないんだ!」
 豊田のストッキングに血がにじんだ。

▽褒め殺し、叱り、くすぐり

大下は戦後のホームラン時代の幕開けを担った強打者である。常に主軸を打ってきた。4番打者の感覚からすれば、当然、『打て』であろう。かたや豊田は西鉄に入団して6年間、ほとんど2番を任されてきた。強打か犠牲バントか、その選択は打順の役割によって生じる野球観の違いというほかない。
 しかし、頼みの中西は簡単に打って二死、窮地に追いやられた。が、この土壇場で関口清治が中前同点打を放った。そして延長10回、何と稲尾のサヨナラ本塁打が出て、三原の執念はついに実った。
 後日談がある。関口と豊田は日頃からウマが合い、よく杯を酌み交わした。席上決まって出るのがあの同点の場面だ。
 「オレのヒットで勝ったようなものだ」
 関口はいつもの自慢話で気炎をあげる。辛口の豊田が笑う。
 「関さん、あれひとつだけでしょうが」
 突っ込まれても関口はいつもご機嫌だった。
 さて、稲尾は第6、7戦も連投して勝ち、3連敗から4連勝の立役者になった。「神様、仏様、稲尾様」のフレーズはこのとき誕生した。
 三原の魔術師たる所以を娘婿の中西に聞いた。
 「門限はなかったが、自己管理ができない者には厳しかったな。選手の性格や日常の行動を知り尽くしていたね。それに選手の個性、長所を大切にしていた。しっかり準備してかかるタイプの監督だったね」
 陽気な中西は誉め殺し。向気の強い豊田はよく叱った。責任感の強い稲尾は彼の自主性をくすぐった。優れた情報収集と洞察力で個々の能力を引き出し、局面に応じて的確に展開する方法論が魔術的だったのだろう。

▽兵どもが夢の跡

後年、中西も稲尾もたまに平和台球場跡地へ足を運んだ。古代、外国の使節を接待した鴻〓(ろ)館の発掘で取り壊されて内野部分が原っぱ状態。外野席の外壁の一部が残っているだけで球場の面影はもはやない。
 「あそこはオレの原点だもんな」
 と中西は懐かしむ。稲尾は、
 「平和台球場はボクの実家。ファンは育ててくれた両親」
 と言っていた。新入団の56年に21勝6敗、防御率1.06で新人王になったシーズンオフ、稲尾は兄の貞幸に叱られたそうだ。
 「和久、お前勘違いしとらんか? 抑えたときはうつむいてベンチへ戻るが、打たれたときは空を見上げて威張って帰りよる。あの態度は逆やないとか」
 「違うよ、兄ちゃん。打たれると一升瓶や物がガンガン飛んでくる。バッテンよく見とらんと危なかばい」
 実情を説明して納得してもらった。この球場には炭鉱に従事する気性の粗いファンが多く、ひたすら西鉄びいきの観客たちがひしめいていた。
 京子ちゃんに思い出話を聞こう。
 「球場周辺の松の木にもただ見の人がいっぱい登っていてですね、最後は、『どうかお怪我をなさいませんように』って場内放送で呼びかけましたよ」
 54年にナイター照明が設置されたとき、すぐ近くの博多湾から海鳥の大群が飛来して試合が中断した。照明を消すと鳥たちはバックネットに当たってバタバタと落ちた。そのころは湾と球場の間には高層ビルが建ってなくて照明の灯りが海を照らす。灯台役となって鳥たちを呼び寄せたのだ。
 「放送席を飛び出してバケツ片手に鳥を拾ったものです」
 そんな彼女も73年に退職してからは一度も野球場へ出掛けていない。
 「私の野球は西鉄ライオンズで終わり。ダイエーホークスでもソフトバンクホークスでもありません」
 兵(つわもの)どもが夢の跡には、様々な思い出が染み込んでいる。(了)

「平和台球場メモ」

福岡市中央区城内1~2、福岡市舞鶴公園内、1949年~97年、人工芝、両翼92m、中堅122m、54年にナイター設備設置。48年に第3回福岡国体の時、福岡城址の陸軍第12師団歩兵第24連隊跡地に平和台総合運動場が建設され49年12月18日に野球場が完成した。低い土盛りのスタンドが多かったが56年に全面改装に入り58年4月26日に竣工
◆54年にパ・リーグの西鉄クリッパースとセ・リーグの西日本パイレーツの本拠となり、51年に両球団が合併してパの西鉄ライオンズの本拠とした。69年に起きた“黒い霧事件”により成績が低迷、73年、「福岡野球株式会社」ができ、球団の命名権が売却され太平洋クラブライオンズ、クラウンライター時代を経て西武ライオンズとなり、本拠を埼玉県所沢市に移転、平和台球場には本拠とする球団がなくなった
◆88年9月、南海ホークスがダイエーに譲渡され本球場に移転、10年ぶりにプロ野球の本拠球場となった。ところが、87年に球場の改修工事中に「古代アジアの玄関口」といわれる鴻臚館遺跡が発見されたため歴史公園として再整備することになった。プロ野球の最後の試合は92年10月1日のダイエー対近鉄戦。同年11月24日にお別れイベントが開かれた
◆2002には残っていた外野スタンドの外壁の一部が地震による崩落の危険から、08年4月にすべて解体撤去された。中西太のバックスクリーンを超えた推定160mの大ホームランが話題になった。(了)