「インタビュー」山本泰③-(聞き手・菅谷 齊=共同通信)

◎毎年監督が代わる珍しい体験
 全国に知られた全盛時代の法政二高で1年生からレギュラーをつかんだ。その素質は大変なものだった。しかし、監督が毎年変わるという異様な状況に置かれた。
▽再会した名将がまた消えた
-1年生でレギュラー(左翼手)になり、1961年夏の甲子園大会に出場。1回戦は先発し、安打を放っているが、2回戦からは出場していない。なにか事情があった?
山 本「実は足を負傷していたんです。だからずっとベンチで先輩の世話をしていました。準決勝で尾崎行雄の浪商に負け、夏春夏の3季連続優勝の夢は達成できなかったんですね。残念でしたよ」
-監督が代わっていましたね。
山 本「ええ、田丸仁監督は法大の監督になったんです。この年の選抜大会で優勝しましたが、監督は田丸さんではなくコーチだった方が指揮を執っていました」
-すると大阪まで連れに来た監督とは一緒にやっていない、ということ…。
山 本「そういうことですね。おかしな話ですよね。田丸さんは、申し訳ない、といっていましたよ。と言われてもね(笑)」
-2年生からは甲子園に行っていない。
山 本「1年上に日本人初の大リーガーとなった村上雅則さんがエースだったんですけど行けなかった。田丸さんがいなくなってから毎年監督が違っていたんです。高校野球でこれはきつい」

▽ドラフト指名、でも入団交渉なし
-法大ではどうでしたか?
山 本「入学したときは田丸さんが監督でした。やっと指導を受けられると思ったら、2年生になったときはまた違う。田丸さんはプロ野球の東京オリオンズに入った。野球人としては大出世ですよ。でも私としては複雑としかいいようがない。高校時代から毎年監督が違うというのはあまり例がないでしょうね(笑い)」
-新しい監督は松永怜一さん。
山 本「そうです。試合には出ましたが、あまり胸を張れる活躍はしていません」
-それでも4年生のときに南海からドラフト指名されている。でもプロ入りしなかった。そのへんの事情は…。
山 本「実は事前に阪神から指名するといわれていたんです。その担当スカウトがオヤジ(鶴岡一人南海監督)の後輩で、オヤジが南海で指名するから、と言って遠慮させたというんです。で、南海から指名されたんですが、南海から入団交渉はなし。社会人へ行け、とうのがオヤジの言葉。オヤジにすれば、プロで苦労させたくない、という気持ちがあったんでしょうね」
-日本楽器に入社…。
山 本「そうです。先にほかの会社から話があったんですけど、そこの監督とうまくいかないだろう、ということで」
-どうも監督とは縁がないようで…。
山 本「そういうことになりますね。後に監督をすることになるんだけれども、選手と監督の関係は重要なんです。私は選手時代にそれをイヤというほど味わっていますから」

 山本は社会人野球で活躍する。“親分・鶴岡”から離れ、初めてのびのびと野球をしたのではないか。(続)