第1回 「芝浦協会と天勝球団」

▽日本で初の大リーグ同士の試合

日本に野球が伝えられたのは、明治維新から数年後の1870年代はじめのころ、明治4、5年というのが通説である。その後、鉄道技師の平岡煕(ひろし)が米国に留学し、そこで体験した野球を持ち込み、日本で最初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を編成したのが78年。学生たちがこれを引き継ぐ形で、東京・赤坂の溜池の野原に集まってプレーに興じた。この時代を野球史では「溜池時代」と呼ぶ。学生たちは故郷に戻って野球を伝え、全国に普及して行く。
 野球は日本人の感性に合っていたのだろう。今でいう大学、高校の大会が生まれた。東京六大学であり、甲子園大会である。1913年(大正2年)に大リーグのニューヨーク・ジャイアンツとシカゴ・ホワイトソックスが来日し、東京・三田の慶應大綱町グラウンドで対戦した。日本で米国のプロ球団が初めて行った試合である。

▽人格、年齢、技術…プロ選手のの条件

このように日本における野球は速いスピードで人気スポーツとなった。そこで持ち上がったのが「日本でも入場料を取って試合を見せよう」というプロ野球の話。大リーグの試合から8年後の21年、日本運動協会が誕生する。のちに「学生野球の父」と呼ばれた飛田忠順(穂州)や都市対抗のMVP「橋戸賞」として名が残る橋戸信(頑鉄)らが発起人となり、選手を公募、その選手には給与を支払う、職業球団を編成した。
 選手の待遇は学歴、人格、年齢、技術などを判断。初任給は50円から100円で、その後は成績などによって昇給していく。現在のプロ野球選手と同じである。合格者は中学出身が多く、大阪や姫路からの選手がいる。それに社会人。大連からはるばる参加した学生、社会人もいた。
 この日本運動協会の本拠地は東京・芝浦に置かれた。そこから通称「芝浦協会」とも。本拠グラウンドの跡地には現在「港区・埠頭グラウンド」の名前で小、中学生のスタンド付き専用球場として残り、球場前に「日本最初のプロ野球チーム」と説明された記念碑がある。
 先人たちの野望は、しかし、わずか2年で消えた。ビジネスにならなかったのだ。資金面の計画が甘かったといわれている。協会はあっという間の解散となり、選手たちは関西へ流れた。そこで救いの手を差し伸べたのは阪急電鉄の小林一三だった。資金を提供し「宝塚協会」として再生させた。これがのちの阪急ブレーブス誕生のきっかけとなる。

▽異端のプロ球団は奇術一座

芝浦協会の後、続いてプロ球団を名乗ったのが「天勝野球団」。オーナーは奇術の興行師で、野呂辰之助といった。一座の看板は松旭斎天勝という女流奇術師。その名を取って球団とした。チーム結成は芝浦協会の直後だった。選手集めとして慶應大のエースとして知られ、東京日日新聞の運動部記者の小野三千麿を起用した。
 オーナーが興行師だけに、遠征に次ぐ遠征で試合をこなした。関西はもとより朝鮮、満州まで出掛けて行った。プロ1号・日本運動協会vsプロ2号・天勝野球団の試合はかなり話題を集めたという。その異端のプロチームも芝浦協会解散の後を追うように姿を消した。2つのプロ集団は、環境や資金の不十分さなどで成功しなかったものの、野球と職業を結び付けたアイデアとパイオニア精神は、泡沫と消し去るには惜しく、その後の球界を考えた場合、一定の評価はできると思う。
 これらのプロ球団が解散をもって、日本プロ野球の大正時代は終わりを告げた。一呼吸置いた後、昭和に入って間もなく、再び職業野球の機運が高まって行く。正力松太郎の壮大な計画である。(了)