「100年の道のり」(29)-プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎幻の天才児、田部武雄
 東京ジャイアンツを語るとき、その多くは主役に“スクールボーイ”こと沢村栄治を取り上げる。
 「天才投手」と。
 その証左として必ず示すのがこれ。
 「大リーグからスカウトされた逸材」
 実は、沢村をしのぐ選手がいた。田部武雄という内野手である。
 1935年、大日本東京野球倶楽部として米国に武者修行したときに、背番号3を背負って参加。105試合で110盗塁を記録している。
 「彼(田部)が盗塁できないのは一塁だけだ」
 3Aの選手たちはそう言って俊足を絶賛した。間隔をあけて登板する沢村に対し、田部は毎試合出て走るわけだから、沢村以上に拍手を浴びた。
 この田部、06年に広島で生まれた。広陵中のエースとして27年の選抜大会に出場、準優勝している。中退して満州の大連実業へ。そこで対戦した縁で明大に入学した。
 「足早く、打撃も肩もよし。ハンサム。スタンドプレーうまし。昭和初期の東京六大学のスーパースター」
 古書にそうある。長嶋茂雄をほうふつさせるではないか。
 31年の日米野球ではファン投票で日本代表に選ばれている。水原茂、三原脩より目立った選手だったという。
 巨人はプロ野球が発足した36年、公式戦には参加せず、第2回の米国遠征を行った。田部は主将として「背番号1」を付け、チームを引っ張った。
 「ぜひ契約してくれ」
 本格的に大リーグからスカウトされた。その快足は前回遠征で認められていたから、このときはかなり強く勧誘されたといわれる。
 今、記録をめくってみると、選手田部のプロ野球記録はない。巨人に在籍した証拠はこれだけ。
 「氏名」「背番号1」「背番号3」
 どういうことなのだろう。
 田部は第2回遠征から帰国すると、選手からの待遇不満を代表して球団と折衝した。ところが衝突し、退団してしまった。公式戦1試合も出場せずに、だ。
 さっさと別れを告げると、再び満州へ向かった。トラック運搬業で成功する傍ら大連実業でプレー。30歳後半ながらエースとして社会人の都市対抗に出場し、準優勝している。
 45年6月、沖縄沖で戦死。39歳だった。
 球界の盟主、巨人で王と長嶋に代表される背番号「1」「3」の両方を背負ったのは、この田部だけである。日本での成績がほとんどないのは、その多くが米国、中国大陸でのプレーだったからで、まさに“幻の天才”。69年に殿堂入り。(了)