「100年の道のり」(30)-プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎米国遠征から帰国、プロ野球リーグ誕生の機運高まる
 東京ジャイアンツが帰国したのは1935年(昭和10年)7月16日のことである。チームが驚いたのは、アメリカ武者修行が高く評価されたことで、予想外の出来事が続いた。
 横浜港から日比谷公会堂で「帰朝歓迎会」が行われ、アメリカ駐日大使代理が出席してスピーチを行った。
「野球はナショナルスポーツになる」と。
 翌17日は帰国歓迎昼食会が開かれた。料理のメニューは洋食で、冷澄スープから始まり、鱒の洋酒煮、ビーフソティー、鶏肉のグリエ、サラダ、アイスクリーム、最後は果物にコーヒーといったコースだった。
 選手たちはそんな心遣いに、
「つらかった遠征、長い旅路の疲れが一気に取れる思いだった」
と語っている。
 休日はおよそ1ヶ月。チームの面々はそれぞれ故郷、家族に元に戻り、英気を養った。
 この後、千葉県の谷津グラウンドに集まり、練習を再開した。8月15日、真夏のことだった。秋に予定されている国内の遠征試合に臨むためで、アメリカで培った成果を試すテストであり、プロ野球リーグ誕生の機運を高める使命もあった。
 この時期は、日中戦争勃発の事前という情勢にあったけれども、野球の熱は全国的に広がりを見せていた。中等(現高校)、大学、社会人と盛んだった。
 「いよいよプロ野球だな。全国の野球ファンもそれを望んでいる。選手はもちろんだ」
 そういう声が相次いだ。東京ジャイアンツの帰国は、それをさらに高めるものだった。正力松太郎の野望は実現の方向に速度を上げているといってよかった。
この年の9月には、東京ジャイアンツの後援会が横浜で生まれた。初めてのことである。
13年(大正2年)に来日した世界周遊チームのジョン・マグロー監督が帰国するとき、
「日本で野球は将来盛んになるだろう」
と予言したが、まさにその通りの状況になりつつあった。プロ野球リーグの産声は、そこに-。(続)