第1回 全国を駆け抜けた長嶋解任ニュースのその日

1980年(昭和55)10月21日、早朝6時前。我が家の電話がけたたましく鳴った。ニッポン放送報道部から「今朝のスポーツニッポン一面の長嶋解任報道は本当か」という、にわかには信じがたい特報だった。「まさか」と思いながら、すぐ新聞受けからスポニチを取り出して見ると、一面いっぱいに自信に満ちあふれた大きな見出しがあった。

▽解任報道は事実だ、今も耳に残る悲痛な声

そういえば前夜、サンケイスポーツの友人から「長嶋内閣に藤田元司が投手コーチとして入るらしい」という情報を聞いていた。しかし、この人事はとても考えられないことで、私は不思議に思ったものだが、ましてや「長嶋解任、藤田新監督」などは想像できなかった。ただ振り返ってみると、この年の夏頃から“反長嶋派”による「長嶋追放運動」が活発になり、秋の深まりとともにその動きがじわじわと水面下から顔を出しはじめていたのは事実だった。
 それはともかく、この日のニッポン放送の午前7時のニュースに情報を入れなくてはいけない。もうこの解任情報が本当かどうか、ミスター本人(長嶋)に直接聞くしかない。6時半になるのを待って田園調布の長嶋家に電話を入れた。亜希子夫人が電話に出て「どうもウチの人はゆうべ眠れなかったみたいですから起きていると思いますよ」と言い、電話をミスターの部屋につなげてくれた。
ミスターは暗い声だった。「その記事を読んでくれないか」と言うので、大きな活字から小見出しまで全て読んだ。読み終えて「これは本当ですか」と尋ねると、しっかりした声で「ほとんど本当だ。しかし、まだ決定したわけではない。逆転の余地はあるが、話が記事のように進んでいるのは事実だ。いずれもう少し時間が経って世の中が動き出すと球団から呼び出しがある。そうすればはっきりすると思うが、その記事のようになる可能性が大だ」。このときのミスターの悲痛な声は今も私の耳に残っている。

▽上ずった声の根本西武監督から「すぐ来い」

この年のシーズン終盤、マスコミは「(巨人は)Aクラスに留まれば長嶋留任は確実」と伝え、正力亨オーナーもそう明言していた。ミスターはその言葉を信じ、最終の広島遠征でなんとかAクラスを手に入れ帰京した。それだけに解任の記事をすぐに信じられなかったのである。
 長嶋解任のニュースはあっという間に日本列島を駆け抜け、我が家の電話も忙しく鳴った。私は騒がしい朝だなと思いながら一つ一つ受話器を取った。
「おい、やっと通じたな。朝から何を長話をしとるんだ。オレだよ」。西武の根本陸夫監督からだった。いつもは深く沈んだようなトーンで電話をかけてくるのだが、この日は上ずった声だった。「おい、スポニチの記事は本当か」「ハイ、本当のようです」「お前は知っていたのか」「いえ、寝耳に水です」「じゃあ、どうして本当だと分かるんだ」「今、ミスターに直接電話で聞いたら、そうなる可能性が大だ、ということなんです」「シゲ(長嶋)は何て言っていた」「まだ決まったわけではない。逆転の余地はあるが、話が新聞で報道されている方向で進んでいるのは事実だ。いずれもう少ししたら球団から呼び出しがある。そうすればはっきりすると思う、と言ってました」「そうか、分かった。人の不幸を喜ぶわけではないが、面白くなってきたな。オレは今、池袋のサンシャイン・プリンスにいる。すぐ来い、朝メシ食べようや」。これで電話は切れた。
 根本監督は常に相手を気遣う素晴らしい人だが、こんなときは極めて強引だ。私は取材の仕事を抱えていたが、急いで仕事を済ますと、川崎の自宅から池袋に向かった。乗り降りした駅の新聞スタンドを見ると、「長嶋解任」を報じた新聞だけが空になっており、後れを取った他紙はほとんど手つかずのまま残っていた。出勤途中のサラリーマンが我先にと買い求めた光景を思い浮かべながら約束の9時半にホテルに着いた。
 ホテルのアシスタントマネジャーに名前を告げると、すぐ案内してくれた。エレベーターで一気に上がった最上階には3部屋続きのスイートルームがあり、窓からさわやかな秋空の下でようやく動き出した東京の町の様子がまるでおもちゃの街のように見えた。

▽面白くなった、男根本が立ち上がった

ミスターはそれまで根本と直接的な関わり合いはあまりなかったが、根本が関根潤三と親友だったこともあり、関根を尊敬するミスターがそれとなく好意を持っていた。また二人は法政大、立教大と母校が異なり、世代も違ったが、ともに青春を神宮の杜で過ごしたところから強い仲間意識があった。
 「シゲは元気だったか」「ええ、電話だけでよく分かりませんでしたが、やはりかなりショックのようでした。それにゆうべは眠れなかったようです」「そうだろうな。で、お前に相談というのは、分かっていると思うが、シゲのことだ。どうだ、ウチへ来てくれないだろうか」
根本は身を乗り出すようにして早くも本題に入ってきた。「まあ、まだ巨人を辞めると決まったわけではないが、こういうことは早いにこしたことはないからな」。まだミスターの去就がはっきりしないのに西武は長嶋獲得に乗り出したのである。
 「おい、シゲは今どこにいる」。根本は何か考えているように切り出した。「たぶんまだ家だと思います」。そう応えると「そうか、電話できんか?」と言ってきた。「早速交渉ですか」。すると「違うよ、ちょっと話をしてみたいだけだ。今日一日は彼にとって人生の中で最も長く嫌な一日になるはずだ。オレが今さら激励したところではじまらないが、なんとなく声を聞いてみたくなってな」
私がミスターの自宅に電話を入れると、まだ待機しているようだった。「その後いかがですか」と聞くと「何を言ってももう決定したようで、今、球団事務所へ来るように電話がありましたよ。おそらくそこでこの件についてはっきり結論が出るでしょう。その後、僕の記者会見があって全て終わるんじゃないですか」とミスターはそう話した。
 「長嶋さん、ちょっと待ってください。今、根本さんと代わりが」と伝えると「西武の根本さんですね、いいですよ」と応じてくれた。根本は早くしろと言わんばかりに受話器を取った。「根本です、お久しぶり。とんだことになって驚いています。今さらボクが何を言っても余計なことだけど、できるだけ我慢してくださいよ。記者会見では、オレは巨人の長嶋だと言うと角が立つから立教の長嶋だと思った方がいい。笑って別れる、なんて無理かもしれないが、ファンのために笑って別れて来てほしい。今日一日は何があっても我慢するように。落ち着いたらぜひ会いたい。たまには野球の話をしたいね。今日一日がんばってな。またそのうち電話しますわ」と言って根本は受話器を置いた。この根本の言葉がこの日のミスターの大きな心の支えになったのである。

▽長嶋獲得へ、堤オーナーから「やってみろ」

電話を終えた根本は「オレは、長嶋は有能なコーチだと思うけどが、どうだ」と聞いてきた。「そうです、ミスターの打撃理論はオーソドックスで、これしかないというものです」「そうだろうな、人はシゲのことを動物的だとか言うけれど、動物的カンに頼る打者だと言うけれど、動物的カンで打つやつがあんなにフォームを気にするはずがない」。根本はそう言い、話を続けた。「緑がさわやかな西武ライオンズ球場。コーチボックスは一塁に長嶋、三塁に広岡(達朗)。どうだ、すごい絵になるぜ。それでオレが監督だとマンガになっちゃうな」。
 このときの根本構想は守備コーチ広岡、打撃コーチ長嶋だったのである。しかし、ミスターと広岡は野球に対する考え方が違う。私はこのコンビがうまくいくようには思えなかった。そんなことを考えていると、根本が立ち上がり何か重大な忘れ物をしたような表情を見せた。「そうだ、オレがいくら素晴らしい構想を練ったとしても、オーナーの了解なくては何もできんからな」
 根本はホテルの交換台を呼び、堤義明オーナーのいる国土計画へ電話をつなぐよう頼んだ。しばらくしてオーナーが電話に出た。「おはようございます、根本でございます。すでにご承知のことと思いますが、どうやら長嶋茂雄が巨人を退団致します。それで今、いろいろ考えていたんですが、私もこの件で少し動いてみようと思いますが、いかがでしょうか…。ポストはまだ十分考えておりません。…分かりました、ではやってみます」。わずか3分ほどの短いやりとりだったが、根本はオーナーの了解を取った。何か世の中が急に激しく動き出した感じがした。
 西武、根本の意向を伝えに、私は翌朝早く長嶋家に行った。一通り話を終わると、ミスターは「根本さんの話はありがたいですが、なにしろ昨日の今日ですからね。ただ根本さんには心配させてしまって。よろしく伝えて下さい」と少し困った様子だった。

▽西武を固辞、Jリーグ発足、球界のため復帰

「どうですか、一夜明けて、気持ちの整理はつきましたか」「そう言われてもね。夏頃から僕の周辺に波が立ち始めたのは感じていたんです。でも球団は、たとえ優勝できなくても僕のチーム作りの方針を理解してくれていると信じていたんです。勝率5割を確保したからといってどうということはありませんが、来シーズンのジャンプ台には立てたと思っていたんです。選手をみても、中畑にしても篠塚にしても、投手では定岡、西本、こういう連中が激しい勝負に耐えられる力をつけてくるのは来シーズン以降ですからね。それに江川もいろいろあったので彼本来のコンディションになるのは来シーズン以降でしょう。まあ、若い連中が少しずつ自信を付けてきているので来シーズンは面白いと思っていたんです。それがこれですからねえ」と、ミスターは思い切り悔しがった。
 正式な根本・長嶋会談は11月13日の夜、東京プリンスホテルで行われた。この席で根本は、まずミスターの心労をねぎらい、西武が今、何を考えているか、これからどういう方向でチームを作りをしていくか、をこと細かに説明した。そして「自分は監督としてある程度、ライオンズの土台を作ってきたが、まだ十分ではない。だが、チームはかなり戦えるようになってきた。もし、長嶋君が引き受けてくれるならすぐにでも監督の座を譲る」と迫った。
 しかし、解任のショックから立ち直れないミスターは、すぐに根本の意向に沿うのは無理だった。結局、西武のフロントは長嶋獲得をあきらめ「勝つことによって球界の盟主となる」道を選び、広岡監督に全てを託すことになったのである。
 その後、長嶋茂雄が再びグラウンドに戻るのは、なんと12年もかかった。93年、サッカーJリーグが華々しく開幕。浮き足だった野球界の力になろうと意を介してのミスターの巨人復帰であった。充電中の12年間にもミスターの周囲にはいろいろな動きがあり、心の安まる暇は亡かった。この12年間、トランプ米大統領ではないけれど、多くのフェイクニュースがあった。憶測が絶えずあった。しかし、ミスターの借りようと誠意の限りを尽くした球団もあった。12年間の舞台裏はどうだったか、それはまた改めて…。(了)