「評伝」山本泰

◎基本と頭脳のドジャース戦法でPL学園を甲子園初優勝に導く
 PL学園を監督として甲子園の初優勝に導き、高校球界の雄とする道を作った山本泰さんが2020年8月11日未明に亡くなった。75歳だった。
 実は、このOBクラブHPのインタビューに登場してもらい、今年2月から掲載してきた。ところコロナウィルスの感染がひどくなったことで、対面を避け大事をとり中断していた。時期を見て再開する話をして間もない死去で、大変残念な思いでいる。
 インタビューアの私は、法政二高の野球部で山本さんの2年先輩にあたる。
 中学3年生の山本さんが1960年秋、法政二高の練習に来たときの衝撃は今でも覚えている。大きな体、強打、強肩、俊足と図抜けていた。上級生は「入学したらレギュラー間違いなし」と驚いていたものである。当時の法政二高はこの年の夏の選手権、61年の選抜と甲子園の夏春連覇。そんなレベルの高いところで、たった1日の練習で実力を認められたのだから、素質はあった。
 振り返ってみると、不運もあった。本人は「高校野球は平安(京都)でやりたい」と思っていたのだが、父親で南海ホークス監督の鶴岡一人から「法政二高へ行け」。大阪まで迎えに来た法政二高の監督だった田丸仁に連れられて下宿生活が始まった。
 入学すると、頼った田丸は法政大学の監督に転出。後任監督はコーチだった大学生となった。山本さんは61年夏に外野のレギュラーとなって甲子園に出場したものの、その後は田丸のような実績のある指導者から指導を受けることはなかった。一番大事な時期だっただけに気の毒だった。
 PL学園の監督を引き受けたとき、最大の武器は法政二高で培った“ドジャース戦法”のノートだった。これは大リーグのドジャースがまとめたもので、攻守走の基本プレーに頭脳を加えたバイブルといわれた。法政二高はこれを駆使して最強チームを作ったプ。ロ野球の巨人がこの戦法でV9につなげたことで知られる。PL学園の甲子園初優勝は1989年夏だった。
 山本さんはPL学園の監督時代を振り返って「法政二高の教えは基本の徹底習得。練習は時間よりも内容重視で、PL学園は2、3時間の練習でした。空いた時間は選手たちが独自に努力していました。甲子園で優勝したとき、逆転のPLと言われましたが、それは基本をしっかり身に着けたことと、選手たちの日頃の努力のよるものと私は思っています」
 真夏のグラウンドで少年たちに指導していたとき、体調に異変を感じ、病院へ。それから間もなく帰らぬ人となったそうである。
 法政二高の主将、法政大学の主将と監督、甲子園の優勝監督。アマチュアとしては文句のない実績だった。プロ野球は阪神からドラフト指名されたが、父親の反対で断念している。シワガレ声と語り口は父親にそっくりだった。(菅谷 齊=共同通信)