「評伝」野村克也(最終回)-(露久保孝一=産経)

◎練習放棄し客のために汗だくのサイン会
野村が死去してから2021年2月11日で1年が過ぎた。「人は死して名を留(とど)む」。いまだなお野村の考える野球の遺産は生きている。戦いの場とともに「人生を考える」行為を地でいく人でもあった。私(露久保)にとって、忘れられない日がある。この話は、長い記者生活で初めて書く記事である。これぞ人間・野村の一面である。
時は1989年(昭和55)8月上旬だった。西武の捕手だった野村は、近鉄との試合前、大阪府高槻市にある西武高槻店でおこなわれた自身のサイン会に臨んだ。同行したのはライオンズ広報担当と記者の私の計2人だけだった。
暑い日だった。扇風機を背中に当てて、午後1時から野村は色紙にサインしていく。字は毛筆で書いた。右上に赤字で「生涯一捕手」、中央に黒字で「西武ライオンズ 野村克也」、その左に「庚申八月五日」と記す。この年は「庚申(かのえさる)」の干支だった。見た目に、きれいな字が並んだ見事なサイン色紙であり、受け取ったファンは大喜びだ。
▽毛筆でていねいに書き上げる色紙
 野村は、一字一字ていねいに書いていくので、一枚終るまで時間がかかる。長嶋茂雄なら1枚5秒ほどだが、野村は赤、黒色を使い分けるので1枚40~50秒もかかる。汗だくになりながら、時折、サインした色紙を客に声をかけて渡す。長い客の列は、加わる人もいてなかなか終わらない。しびれを切らした広報担当が「途中ですが、野村さんは、このあと試合前の練習があるので、すみませんが、そろそろ終わらせていただきます」と列に向って平身低頭し声をかけた、
 その時、野村は目をつりあげた。「まだお客さんが並んでいる。練習より、お客さんの方が大事だ」とサインを続けた。私も、試合前の練習は取材のために必要な時間であり、内心「帰りたいな」と焦っていた。しかし、野村の真剣なまなざしに圧倒された。
選手にとって、試合前練習の集合時間厳守はチームの規則であり、それに遅れれば違反行為である。野村は遅れるどころかサボタージュである。しかし、それを承知の上で規則をあえて犯し、客のために尽くした。野村は、最後尾の客にまでサインを書いて渡した。
サイン会は終了予定より1時間30分オーバーし、タクシーで日生球場にかけつけた。試合前の練習はとっくに終わっていた。
▽野球も人生も私に武器を与えてくれた
 監督の根本陸夫は、野村遅刻を広報担当から聞いた。「そうか、あの男(露久保)もいたのか。あれも一緒なら、野村の罰金はなしや」
 根本監督は、私がそこにいたことを理由に、野村の行動はひとつの仕事として認めてくれたようだ。私はこの話をあとで聞いたが、野村と同じような根本の人情味を痛感した。
 野村は、とことん人間を大事にする男だった。
「自分のサインを欲しいと来ているのだから、その気持ちに感謝して真心をこめたサインを書いて渡さなければならない。文字が乱れないように丁寧に字を書いているのは、客に喜んでもらうためだ」
色紙にさっとサインして渡す選手も多いなかで、野村は異質の存在であった。野球も、人生も、何が大事かを考えて他人に礼を尽くして世間を渡っていく。
 野村に対して、表裏のある利己的な人間とか、冷たい人間だとか批判する声もある。しかし、私は新聞記者生活のなかで、野村克也という人間と付き合えたことを私の人生の誇りとし、野球理論においても人生訓においても考える武器を身につけたと思っている。現役引退を前にして、東京から所沢へ向かう愛車リンカーンのなかで聞いた本音から、今回の客のために尽くしたサイン会まで、人間・野村を描きたいと思って取り組んできた。
最後に、新聞記事にならって読みやすいように名前を「野村」として書いてきたが、私はどこにいても「野村克也さん」と呼んでおり、その気持ちを天にいる師に伝えペンを置きます。(完)