「いつか来た記者道」(35)-4(露久保孝一=産経)

◎大震災から10年、再び野球の底力を
 2021年3月11日、多くの人の命を奪った東日本大震災から10年目を迎えた。東北ばかりでなく、関東の人たちも、あの日午後2時46分、第一波の大地震のあと余震が続き、恐怖の体験をした。
私(露久保)も夜、都心から横浜の自宅まで歩いて帰ろうと試みたが、途中でダウンしてしまった。
 プロ野球界にも驚愕が走った。仙台をフランチャイズにする楽天の選手は、地域の人たちを、ファンを心配し、「何かしたい」と考えた。そのあとに出た言葉が、これだった。
 「見せましょう、野球の底力を」 
 楽天の嶋基宏捕手がスピーチした言葉である。
4月2日、NPB(日本野球機構)が大震災の復興支援のために実施した慈善試合(札幌ドーム、対日本ハム)の前に、嶋は選手を代表してこう呼びかけた。
この言葉は国民に感動を与え、流行語大賞の候補にもなった。楽天は、選手会長の嶋、キャプテンの鉄平を始め、岩隈久志、田中将大、永井怜の各投手が参加して各地で慈善事業などを行った。
▽国立大エースがプロから中学指導へ
当時、被災地の国立岩手大学野球部に北東北大学野球連盟で35勝をあげた好投手がいた。
三浦翔太である。
同年10月のプロ野球ドラフト会議でソフトバンクから育成3位指名された。アンダスローの技巧派投手は、故郷が大災害にあったあとだけに、自分がプロの世界で活躍して少しでも元気づけられるような存在になりたいと胸に秘め、プロのスタートを切った。
 背番号「134」。1年目は主に三軍で投げ、3勝8敗1セーブをあげ、二軍戦では0勝2敗だった。しかし、11月に右ひじの手術を受け、これがもとで投球に精彩を欠き、一軍登板は果たせなかった。14年、戦力外通告を受けた。 
 三浦は、プロでの再挑戦を断念し、故郷での教員指導の道を選んだ。岩手県の教員採用試験に合格し、中学校で体育教師として出発する。
現在は、三陸海岸沿いの久慈中学校で体育と野球を指導している。ソフトバンクで学んだトレーニング方法や投球、打撃フォームなどを、明るいチーム作りを意識して部員に教えている。
▽災い乗り越え前を向いて進んでいく 
三浦が6歳まで住んだ大槌町は高さ10メートルを超える大津波に襲われ、かつての自宅や保育園は跡形もなく消えていた。そんな姿を見て震災10年が過ぎたいま、自分が少年時代から大学まで野球を通じて育てられた地元に「恩返し」をしたいと、野球部員と接し、教員指導に情熱を注いでいる。
 嶋は、ヤクルトに移籍して2年目に震災10年となった。
「この日が来ると気持ちが引き締まる。決して忘れてはいけない日だけど、いつまでも後ろ向きではいけない。前を向いて進んでいかないと」
と決意を新たにした。チームでの貢献に挑んでいる。
その積極姿勢は、「三浦先生」にしても同じである。
大災害、ウイルス蔓延、アクシデントを乗り越えて、「前に向かって」進んでいかなければならないという人々共通の意思が、プロ野球の世界からも発せられているのである。(続)