「中継アナの鉄人」深澤弘さんを悼む(2)-(露久保 孝一 = 産経)
◎関根潤三さん、根本陸夫さんと密談
深澤さんの球界交友の広さは、マスコミの中で際立っていた。長嶋茂雄、王貞治、落合博満各氏を始め、老壮青の多くの人から親しみをもたれた。その交友の中に、関根潤三さんと根本陸夫さんがいた。私は、深澤さんとともにその2人に加わり、一時期よく東京・品川プリンスホテルで会った。
1980(昭和55)年の秋から冬にかけてのプロ野球オフシーズンには毎月1,2度顔合わせをした。深澤さんはニッポン放送「ショウアップナイター」の中継アナウンサーで、関根さんは深澤さんとコンビを組む名解説者だった。根本さんは西武の監督として采配を振るっていた。
関根さんと根本さんは、同じ26年生まれで日大三中と法大で投手関根、捕手根本としてバッテリーを組んだ仲である。プライベートでもずっと親友同士だった。70年、広島監督だった根本監督がコーチとして関根さんを招いて、チームの試合、選手育成などで協力しあった。私を除いて、3人とも世を去った。あの世でも、3人で好きな野球談議に花を咲かせていると思うと、その笑い顔が浮かんでくる。
▽ご機嫌根本さん、深澤さんに軍の機密を
品川プリンスホテルで4人が会ったのは、主に根本さんからの誘いである。「ジュンちゃん、きょう午後空いている? 品川でコーヒー飲もうや」と関根さんに声を掛けると、すぐ話はまとまる。関根さんは、深澤さんに「(ニッポン放送の)番組の仕事がないから、根本と会おうや」と誘う。
さて、私である。
私は同年11月のある日、同ホテルに根本さんが姿を見せることを知り、待ち構えていた。根本さんに聞く特別な用件はなかったが、何かネタをつかもうという軽い気持ちだった。そこで、「お、お前か。お茶を飲もうか」となって話した。やがて、関根さん、深澤さんが見え、4人で話をした。これが縁となって、その後、根本さんが関根さんと会うときに「お前もお茶のみに品川に来ないか」と誘いの声がかかり、4人でのカルテット会が出来上がった。
関根、根本、深澤の3人は、酒を口にしないからコーヒーとビスケットである。巷のよもやま話からいつの間にか野球の話になるのが、普通のパターンである。深澤さんと私は、関根・根本会話を聞いていることが多かったが、時折、質問した。
深澤さんは、機を見て、根本さんに尋ねる。「この前の(西武の)Sは中継ぎでいいピッチングをした。今度、先発で使ったらどうですか?」
根本さんは、「よく見ているな。次のロッテ戦で頭からいってみるよ」と先発を口にした。根本さんも深澤さんも、私の顔を見た。私が記事にするんじゃないか、という両者の「読み」である。深澤さんは、あとで私に「露ちゃんが聞きたかったみたいだから、代わりに言ったんだよ」と笑った。
▽私にスクープを与えてくれた深澤さん
後日の話し合いでは、根本さんが「あしたは大阪や。ちょっと面白いことをする」と言った。すかさず、深澤さんが「阪神の人とでも会うんですか?」と質問すると、「ま、数日後にわかるよ。ポインター(根本監督が私に「お前はポインター犬みたいに取材する」とつけたあだ名)が書くだろう」と暗示した。その通り、阪神との投手のトレード成立である。もちろん、ポインターが嗅ぎつけスクープ記事にした。
私は深澤さんに電話した。深澤さんは甲高い声で話した。「記事を見て、大笑いした。根本さんは、なんでホテルでわれわれにしゃべったんだろうね。ああいうことは隠す人なのに・・・」
4人の雑談会は、野球界の裏側や野球技術のことがよくわかり、ずいぶん参考になった。ただし、ここでの話を直接記事にすることは、私は避けた。お茶のみ話、いわばオフレコの場であるからだ。新聞記者である以上に、人と人とのつきあいの社交場を大切にした。私の遠慮している態度を深澤さんはよく見てくれたので、私の代わりにズバリ質問もしてくれたのである。(続)