「100年の道のり」(46)-日本プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎試合で実力向上の阪神、巨人は一から出直し練習
 阪神は巨人と帯同した遠征を終えると、森茂雄に替え石本秀一を新監督に迎えた。巨人と6試合行い、4勝2敗と勝ち越し、さらにチーム強化を図る狙いがあった。石本は広島商の監督として甲子園で優勝しており、厳しい練習で知られた存在だった。1936年7月29日のことである。
 プロ野球の関心は高まり、8月下旬にセネタースを持つ西武鉄道が東京の上井草に球場を完成したのもその勢いだった。開設記念イベントとして阪神、阪急、大東京を招いて試合を行った。
 阪神はここでも強さを発揮した。新監督の石本は満面の笑みを浮かべ、胸を張って帰阪した。球団も人事成功と満足そうだった。
 この後、9月中旬から阪神-阪急の定期戦がスタートした。甲子園で3日間3試合行い、阪急が2勝1敗で第1回を制した。
 第1戦は阪急が8-1。若林忠志、藤村冨美男を打ち込んだ。第2戦は阪神が16-3で大勝した。第3戦は乱打戦となり、12-11で阪急が追いすがる阪神を振り切って逃げ切った。
 阪神が各地で試合を行って力をつけていたのに対し、巨人は一から出直しという緊張状態にあった。
 阪神との帯同遠征の後、7月終わりから朝鮮・満州遠征に出た。満鉄の招待で「優雅な旅」と伝えられている。戦いはのほほんとしたもので、選手たちは負けても悔しさのかけらも見せなかった。
 その甘さを見て監督の藤本定義が「オレは辞める」と啖呵を切ったのは8月半ば。惨敗した直後だった。周囲の引き留めもあって最後まで指揮を執ったが、腹の中では怒りで煮えくり返っていた。
 帰国後、藤本は巨人再生に動いた。
 その第1弾が三原脩の入団養成だった。後日分かったことだが、藤本は阪神との遠征中に三原との接触を画策していた。今のままでは巨人は駄目になる、と見ていたからである。
 三原は早大のスター選手で、巨人の母体となった大日本東京野球倶楽部の契約第1号。野球に対する知見はだれもが認めていた。藤本の早大の後輩にあたることもあって交渉はスムーズに進み、助監督として迎えることに成功した。
 「あるのは猛練習のみ」
 藤本、三原のコンビの方針は決まった。練習グラウンドは群馬県館林の分福茂林寺球場とし、遠征から戻って6日目の9月5日から始まった。選手たちは間もなく、首脳陣の「精神を叩き直す」ことに重点を置いた練習であることを、体を持って知る。
 あまりにも対照的な巨人と阪神だった。(続)