「中継アナの鉄人」深澤弘さんを悼む(3)-(露久保 孝一 = 産 経)

◎深ちゃんの土産探しに土橋さん大苦戦
 1965(昭和40)年頃から約30年間は、プロ野球の中継はラジオが中心だった。ニッポン放送の「ショウアップナイター」の名実況アナだった深澤さんは、関根潤三さん、土橋正幸さん、江本孟紀さん、平松政次さんらの解説者とともに華やかな試合中継を提供、ラジオ中継聴取率トップを走った。
 ニッポン放送は深澤さんが亡くなったあと、2021年9月8日夜に「ショウアップナイタープレイボール」で、緊急追悼番組を放送した。出演した江本さんは、現役引退後、就職先を探しているときに、深澤さんから「解説をやらないか」と声をかけてくれて救われたエピソードを披露した。「40年の解説者人生のほとんどを深澤さんに支えてもらった」と話すと、涙で言葉が続かなくなった。
 江本さんは18年6月5日、東京プロ野球記者OBクラブ総会に出席し、当クラブ理事の深澤さんの前でこの秘話を詳細に伝えている。深澤さんは、じっと話を聞いていた。人と人との触れ合い、信じあいを大切にする深澤さんにとっても、忘れられない人生の一コマだった。
 時代が昭和から平成に変わった頃、神宮球場で試合前のヤクルト打撃練習中に、深澤さんはこう言ったことがある。「きょうは、エモやんだからちょっと熱くなるな。エモやんは勘が鋭いから、試合を見ていていいところをついてくる。エモやんとは、真剣勝負で中継しているよ」
▽大学生協へ3日続けて買い物ドライブ
 土橋さんも熱くなるタイプで、深澤さんは「あの人は劇場型ならぬ、激情型だよ」と笑って話したことがある。土橋さんは草野球(軟式野球)から東映(現日本ハム)に入団し通算162勝をあげ、本格派右腕として鳴らした。しゃべりは、江戸っ子のべらんめえ口調で、張りのある声は深澤さんと似ていた。深澤さんも、多摩川の西の神奈川県川崎市の生まれでべらんめ調に近く、ラジオ中継では両者の小気味よいしゃべりで放送が繰り広げられた。
 その土橋さんと私(露久保)は、1984年の西武の米アリゾナ州メサキャンプで同じ取材をした。私はキャンプをすべて取材したが、土橋さんはニッポン放送解説者として1週間滞在した。土橋さんは取材初日に「露久保君、どこかいいお土産屋さんないかな」というので、僕の車(レンタカー)でアリゾナ州立大の生協に連れていった。広い店内に多くの品物があった。「いっぱいあって、何を選んだらいいか迷っちゃう。深ちゃん(深澤さん)に土産を買って帰りたいんだけど、ポロシャツとかベルトとかがいいなあ」
 土橋さんは長い時間かけて見て回ったが、ギブアップ。「悪いけど、あしたまた来てくれない?」。翌日、西武の練習取材後、土橋さんを連れて2人で生協へ向かう。土橋さんは、いくつか袋に詰めて店から出た。しかし、「これは家族と友達のもの。参ったな、深ちゃんにぴったりのものがないんだよ。あしたまた頼むよ、露久保君」である。
▽愛する熱心な解説者に感謝
 3日目に、土橋さんはやっと「いいもの」を3種類選んだ。「深ちゃんに喜んでもらえそうなものが見つかった。露久保君のおかけで助かったよ」。土橋さんが3日もかけて1人のためにわざわざ土産を探したのだから、深澤さんとは深い、深い仲だったのである。片道40分ほどの大学生協ドライブは、土橋さんの例のおしゃべりで退屈はしなかった。
 解説者では比較的地味な存在だったが、元大洋投手の森中千香良(もりなか・ちから)さんは、選手の性格をよくとらえて軽妙な語り口で解説した。深澤さんとテンポがよくあった。森中さんのベンチレポートも味があった。同じく大洋で、「カミソリシュート」を武器にON(王貞治さん、長嶋茂雄さん)に挑んだ平松さんも、投手の攻め方、心理状態など交え深澤さんと内容の濃い語りを続けた。
 「解説者はみんなまじめで研究熱心、本当に野球を心底愛している人ばかりだよ」
 深澤さんは、バッテリーを組んだ解説プレーヤー全員に敬意を表していた。(続)