「中継アナの鉄人」深澤弘さんを悼む(4)-(露久保 孝一=産経)
◎喧嘩じゃないよ、野球中継だよ
まもなく世紀が変わろうとする1999年9月、私は神宮球場で取材をしていた。ナイターの試合開始30分前、バックネット裏2階席のニッポン放送ブースに向かった。
ヤクルト主力選手のちょっとした「いい話」をつかみ、それを深澤弘アナウンサーに伝えるためである。2階にあがると、大きな声が聴こえてきた。喧嘩しているような挑発的な声である。うっ、まさか、こんなところでもめごとを、と思ったが、すぐに深澤さんのラジオ中継の本番の声とわかった。
「神宮球場は上空、雲一つない青空に覆われています。こんな好天気の下でプレーする選手は、すがすがしい気持ちなり気分が乗るでしょうね、関根さん」
喧嘩どころか、広い野原で遠くまで聴こえるような、澄んだ大きな美声だった。私はそれまで、深澤さんの実況を時々、イヤホンを耳にあてて聴きながらバックネット裏で試合を追っていた。が、実況の現場を見て、生の中継を聞くのはこの時が初めてだったので、最初、驚かされたわけである。深澤さんの隣には、解説者の関根潤三さんが座っていて、私の顔を見て手を挙げてくれた。
▽なんで、特ダネをラジオに流すのか
私は、この時代より10~15年前に西武ライオンズの担当記者を務めた。その時からフジサンケイグループの一員として、ニッポン放送がプロ野球情報を番組中に流すために選手のエピソード、出来事などを定期的に提供していた。
ある年の夏、西武の四番打者・田淵幸一選手が「風邪でダウン、あすの試合出場断念へ」という特ダネ情報をキャッチし、深澤さんに電話で話した。深澤さんは「これはビッグニュースだ。さっそく中継の途中で流すよ」と小躍り。それをラジオ中継で伝えると、他紙のライオンズ担当記者がこの放送を聴き、事実確認に走った。
スポーツニッポンの記者からは「露ちゃん(露久保)が田淵のニュースを教えたんだろう? これはスクープなんだから自分の新聞に書けばいいのに」と言われた。確かにそうなのだが、深澤さんに何かいい材料を捧げたいという思いが強かったので、私自身は深澤さんに喜んでもらったことで満足だった。
試合実況中のアナウンサーと解説者の話には、いわゆる立て板に水のような速射砲のごとく響き渡るしゃべりがあった。99年、神宮でのニッポン放送ブースの後ろにいた僕は、深澤さんと関根さんのやりとりに魅了し、しばし聞きほれたほどである。
深澤さんの中継の特徴は的確な状況描写にある。ピッチャーが投げる瞬間、投球を打者が打つ瞬間、打球の行方などが瞬時にわかり、聴衆者は自分がスタンドで観戦しているような感覚になる。中継アナにとっては当たり前の情景描写ではあるが、深澤さんの場合は「間の取り方」が絶妙にうまかった。声は大きいが、絶叫口調にはならない。解説者とのしゃべりで試合の緊張感を伝え、監督、選手のエピソードをユーモアを交え紹介して聴衆者の気持ちをほぐしていくのである。
僕が聴いたショウアップナイターの最大の魅力は、試合開始からの状況をタイムリーよく的確に表し、他球場の途中経過も小刻みに伝えることだと認識していた。特に、他の試合の途中経過はラジオ中継の中で群を抜いて優秀で、プロ野球全体の試合状況までわかるので、ショウアップナイターはありがたかった。
▽次の1球が、勝敗の分かれ目になります
深澤さんは、神奈川県川崎市に住んで関根さんの家は徒歩10分と近くかった。関根さんの運転する車に乗って野球場に出かけることも多かった。関根さんについて、深澤さんはこう声を高くして話した。
「試合状況を見る場合、よく、試合の流れ、というけど、この言葉を最初にメディアで使ったのは関根さんだった。ピッチャーの次の1球が勝敗の分かれ目になります、という言い方を始めたのも関根さんだった」
関根さんのその言葉を引き出したのは、深澤さんだった。試合で緊迫した展開が続き、勝敗を決するのはいつか? 勝負の分かれ目はいまここにある…そんな思いで深澤さんは関根さんに質すように目を向ける。以心伝心のしゃべりである。
神宮、後楽園(現東京ドーム)、横浜スタジアム、西武、あるいは関西で鳴り響いた深澤節は、切れ味抜群だった。マイクの前に立つのが、により好きな男であった。(続)