「菊とペン」(24)-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎「あんたは顔がきれいだから…」
 プロ野球のキャンプがスタートした。本格的な球春到来だ。しかし、喜んでばかりもいられない。今年もコロナ禍が暗い影を落としている。オミクロン株の第六波襲来で、各球団は厳戒態勢を敷くという。球場とホテルの往復、そして軟禁生活を強いられるのは確実になっている。
 不肖、66歳の筆者も巣ごもり生活の日々を過ごしている。「小人閑居して不善をなす」というが、こんなことではダメと思い直して溜まりに溜まった週刊誌・雑誌の類を捨てることにした。
 でも、引っ張り出すと、また読み直してみたり、惜しくなってまたしまったり。と、一冊の雑誌が出てきた。「球場物語」、12球団本拠地の今と昔。読み進めると止まらなくなったが、引き付けられたのが「川崎球場」のページである。
 懐かしい。24、5歳の駆け出し時代はよく取材に行ったものである。当時はロッテの本拠地で、「古い」「狭い」とからかわれた半面、近くで観戦できる魅力があった。
 グラウンドに出ると、山内一弘監督がかっぱえびせんの異名通りに選手を熱心に指導、エース・村田兆治投手が打撃投手を買って出て汗を流していた。かと思えば、打撃ケージで順番を待つ落合博満選手を背広姿の男性が手取り足取りで教えてい。「なっ、こうだよ、こう」「そうそうカーブはそうやってな」。落合は苦笑いを浮かべていたように見えたが、さぞかし名のある方と思い、名刺を出してあいさつすると、同業他社の先輩だった。こんなのあり…。
 取材も自由でほぼ無制限、まあ取材する記者が多くて5、6人だ。記者席もオンボロでおしぼりが2度出るサービスがあった。グラウンドから風が吹きつけると顔が砂で汚れるからだ。トイレは古くて旧式、よく映画やテレビのロケで少年院などのトイレとして撮影されたという。
 球場内の施設の1つにラーメン屋があったが、これが実にうまかった。ある日、先輩と立ち寄り、「しかし、なんだなあ。ここでラーメンをすすっているとわびしくなるな」(先輩)、「そうですねえ、身に沁みます」(私)なんて会話を交わしていたら、後ろにロッテの球団幹部が立っており、気まずい思いをしたことも。
 もう1つ思い出したことが。その日は隣接する川崎競輪の開催日だった。川崎駅東口から徒歩で約15分、野球開催だけでは見られない人の波である。他社の記者と偶然一緒になり並んで歩く。「あー、これだけの人が球場に来たら」、「だよな」。川崎球場の別名は空埼球場、観客が少ないことで有名だった。
 私、「あーあ、こんな日は競輪にでも行って一儲けするか、ハハハ」とつい大声で他
社の記者に話した。すると、40代後半だろうか、私たちと並列で歩いていた人が私に向かって、こう言い放ったのだ。「やめときな、勝てないよ」。私、若かった。むきになった。「どうしてですか?」「あんたは顔がきれいだ。だからダメ」。男はス〜と離れて行ったが、意味が分からなかった。
真意を知ったのはだいぶ後になってからだ。ご存じのように競輪は実に奥の深いギャンブルだ。ただ速い選手が勝てるワケではない。選手間の駆け引きがメーンとなって様々なドラマが生まれる。人間関係が絡み合う。展開のアヤで堅く収まり、時には大波乱を呼ぶ。
推理に推理を重ねる。競輪はあらゆるギャンブルの中で最終地点だという。喜怒哀楽を道連れに多くの人生経験が必要だ。こう言いたかったのではないか。「男の顔は履歴書」という言葉がある。その履歴書の数ページしかない若造がいっぱしの口をたたいている。
 競輪ファンは我慢できなかったのだろう。ほろ苦く思い出してしまった。まあ、巣ご
もりもたまには悪くないか。それにしても「顔がきれいだ」と他人、しかも男性に言われたのはこの時、ただ一度のことである。(了)