「100年の道のり」(52)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎野球人気上々、初のMVPに沢村
 1936年(昭和11年)初冬の日本一決定戦、巨人-阪神はプロ野球人気をあおり、職業としても先が見えた点で重要な戦いだった。翌37年、新たにイーグルス(後楽園野球倶楽部)が加わり、8球団となった。
 このシーズンから春季、秋季の2シーズン制を採用。オールスター東西対抗戦の実施、最高殊勲選手の表彰制定、さらに投手のロージンバッグの使用など細かい規則も決めた。
また、初めての公式記録員として記者だった広瀬謙三を任命した。
正月元旦から試合を行ったのもプロ野球本格化の意気込みがうかがえた。こんな記録が残っている。
参加したのは阪神、金鯱、セネタースの3球団。元旦1日に広島・呉二河で金鯱-セネタース、阪神-金鯱がスタートで、2日に広島商業グラウンドで試合をした後、3日から5日まで甲子園、最終日の7日は神戸だった。関西の野球熱は関東をしのぐものだったことが分かる。と同時に、職業野球の市民権を得ようとする熱い思いでもあった。
 春季リーグ戦が始まったのは3月26日。8試合総当たりで1チーム56試合だった。予想通り巨人と阪神が優勝を争った。
 1位 巨人=41勝13敗2分け 7割5分9厘
 2位 阪神=41勝14敗1分け 7割4分5厘
 0.5ゲーム差という接戦だった。巨人は阪神に5勝3敗と勝ち越したが、その勝敗を分けたのは投手力の差で、防御率は巨人1.53、阪神1.72。打力は阪神が上回った。打率2割4分6厘(10本塁打)に対し、巨人の2割4分2厘(7本塁打)。
 3位のセネタースは30勝だったから1、2位とは10勝の差があった。新参加のイーグルスは12勝44敗で最下位だった。
 新設のMVPは、24勝4敗の巨人・沢村栄治が獲得した。防御率0.81、196奪三振と他を圧倒した。投手三冠王である。5月1日の阪神戦では、前年に次ぐ2度目のノーヒットノーランを達成している。
 首位打者は阪神の松木謙治郎(3割3分8厘)、本塁打王は2人で巨人の中島治康と阪神の松木(4本)、打点王は阪神の景浦将(47打点)。
 リーグ戦が終わったのは7月17日だったが、その10日前の7日に「盧溝橋事件」が起きた。日中戦争の本格化で、その波紋は球界にも広がった。当然のごとく、応召に入営となっていく。これからプロ野球発展というときの事態に球界関係者は緊張した。(続)