「いつか来た記者道」(55)-(露久保孝一=産経)

◎時代が変わっても野球人気は変わらず 
 昭和時代が終ってから33年が過ぎた。2023年は、いわば昭和98年に当たる。第2次世界大戦の終戦後からは78年になる。そんなに時代は過ぎたのか、と感慨深い思いにとらわれる方も多いと思う。
 それでも、昭和はなつかしい。20(1945)年、日本が敗戦してアメリカ軍を中心とするGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の支配下に入った時、焼け野原と化した国は悲惨な状態にあった。そんな打ちひしがれた日本を見て占領軍は、明るい国家社会をつくるために「天皇と野球の力を活用しよう」と考えた。その野球が期待通り発展し、今日の日本の繁栄と健全な国民の礎となったのである。
 こう述べるのは、慶應義塾大名誉教授の池井優さんである。同教授は2022年11月22日、横浜市の慶大日吉キャンパスにおいて、同大卒業生がつくる三田会団体の記念講演会をおこなった。池井さんの演題は「野球伝来150年―H・ウイルソンから大谷翔平まで」だった。長い野球歴史を語った講演のなかで、多くの慶大OBの関心を惹いたのは、占領政策の目玉は野球であったという件だった。池井さんの話をもとに、占領下の野球の発展を追うと、次のようになる。
▽占領軍「野球を通じて明るい日本を」
 GHQのマッカーサー最高司令官の部下マーカット少将は野球が大好きで、占領政策に野球を活用しようと考えた。日本では戦前から少年の間で軟式野球が盛んでその再建のため、軟式ボールの製造を増やし一般の野球熱を高めることを図った。野球場にも目を向け、関西で甲子園に次ぐ、プロ野球も試合ができる球場を作ろうと大阪球場建設のための資材を提供した。難波の一等地に南海ホークスの本拠地が誕生したのである。
 もうひとつ、ラジオ第二放送(現NHK)で野球実況中継を取り入れることにした。人気のあった東京六大学のリーグ戦を中心に放送をおこなった。占領軍はさらに、本場のアメリカの活発な野球を日本に伝えようと務める。大リーグで1934年に三冠王、MVPに2度輝いたゲーリックは「鉄人」と呼ばれながら終盤は病状と戦いながらの奮闘だった。その野球人生の感動ドラマを名優ゲーリー・クーパーが映画「打撃王―ルー・ゲーリック物語」で演じて好評を得た。日本人にも野球の良さを映像でアピールしようと上映した。
 また38年、15勝したモンティ・ストラットンはオフにウサギ狩りに出かけ誤って自分の右足を撃って切断を余儀なくされ、のちに義足を装着してマイナーリーグに復帰した。彼の映画「蘇る熱球」はアカデミー原案賞を受賞し、日本にもお目見えした。
本場のプロ野球を日本のファンの目に直接触れてもらおうというプランも実現した。サンフランシスコ・シールズが来日して日米親善試合をおこなった。後楽園球場での第一戦で日の丸と星条旗が並んで掲揚され、日本人観客を喜ばせた。

▽野球で成り立っている国なのだ
大リーグは国民に愛されている人気スポーツである。「アメリカ人は勇気ある人々で、家庭に帰れば良き父であり、良き母であるとのイメージを日本人の間に植えつけることに成功した」。池井さんが強調したように、日本人はアメリカ野球からスポーツの楽しみ、教育面の美点、明るい性格への導きなどを学び、その野球を高度に発展させて社会に大きな貢献をした。
巨人のON(王貞治・長嶋茂雄)から現在の村上宗隆、佐々木朗希へ、米大リーグにおける日本人の野茂英雄、イチロー、大谷翔平らの活躍の継続へ、野球の伝統が見事に引き継がれている。
 「日本という国はやはり野球で成り立っている国なんだな」
 古き時代を知る元慶大生たちは、池井さんの話に大きくうなづいていた。(続)