◎球界を救った選手会(1)-(菅谷 齊=共同通信)

 1945年8月15日、玉音放送。太平洋戦争が終わった。無条件降伏だった。首都東京をはじめ、全国のいたるところは焼野原で、それが日本の惨敗を如実に示していた。
 どん底に叩き込まれたなかにあって、プロ野球は終戦から3か月後の11月に東西対抗と銘打った試合を開催した。用具をかき集め、ファンに“野球は不滅”を見せた。
 一方で野球をギャンブルの対象とした輩が現れた。生活苦の選手に黒い手が伸びた。よからぬ出来事がグラウンドで起きた。それを排除するために行動したのは選手たちだった。選手会である。戦後の発展につながった曲がり角といえた。
 選手会が球界のピンチを救ったのだった。裏面史を探る。
▽草創期のプロ野球にはびこった闇
 プロ野球のリーグ戦がスタートしたのは36年(昭和11年)のことである。
 この年の日本は世情不安だった。2月、長嶋茂雄が20日に生まれてから間もない26日未明、首都で起きた「2・26事件」。ざわつくなかで4月から公式戦が始まった。
 31年と34年の2度、大リーグ選抜軍が来日し、日本の野球熱は一気に高まった。日本は中等(高校)野球、大学野球が人気を誇っていたが、それが必然的に職業となった。日中戦争などおかまいなくプロ野球は突き進んだわけで、現在では考えられない勇断だった。
 目論見通り、プロ野球の関心は高まった。
 それに目をつけたのが“その筋”だった。試合の勝敗を賭け事にして収入源とした、と伝えられている。
 初めは「先発投手の情報」を取ることだった。チームの指導者や選手を接待して「明日の先発投手」を入手するのである。グラウンドの外での話だった。
 これが深入りしていく。故意に負ける敗退行為(八百長)をさせるため、金銭を与えて選手を抱き込む。勝つのは難しいが、負けるのはミスをすればいいわけで、当然、確実に試合に出場するレギュラーが標的となった。
 草創期、反社会との交際があったあるチームの首脳陣が付き合いを断った、という話がある。出版物に実名で出ているから本当だったのだろう。
 このころ選手会はない。まだ海のものとも山のものとも分からないプロ野球で、プレーを楽しむ一方、ギャンブルの対象となっていたのが草創期である。アマチュアの有望選手がスカウトされても入団を断るケースは少なくなかった。なにしろ選手たちが「明日はどうなるか見えない世界」でプレーしていた状態で、あやふやな団体、という存在だったことが分かる。(続)