「100年の道のり」(61)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎戦地に消えた沢村、景浦…
 パールハーバー襲撃から間もなく、劣勢に。悲報が相次いだ。戦地からプロ野球選手の死が次々と届くようになった。
 「日本のプロ野球はこの二人の対決から始まった」といわれる巨人のエースだった沢村栄治(京都商)と阪神で豪打を振るった景浦将(松山商-立大)の戦死は大変なショックだった。どこで、どんな最後だったのか。
 沢村は1938年(昭和13年)に日中戦争に出征し、手榴弾投げで肩を痛めた。41年、今度は太平洋戦争で兵役に就いた。フィリピン沖で亡くなったのは3度目の応召だった44年12月。輸送船を襲われた。実はこのとき、すでに巨人選手ではなかった。1月に「解雇」通告を受け、民間で働いていた。27歳で失意の中で海中に消えた。
 対する景浦も悲惨だった。フィリピン・ルソン島で食糧難に襲われ、やせ細った状態で食べ物を探しにジャングルに向かったまま行方不明になった、という。自ら命を断った可能性が強い。45年5月のことと伝えられている。グラウンドでが豪快そのものだった男の哀れな最後。29歳だった。
 神風特攻隊で亡くなったのが名古屋の石丸進一(佐賀商-日大)。43年にノーヒットノーランを達成した後、学徒出陣で出征し45年5月に敵艦に向かった。23歳だった。
 巨人のファイター捕手だった吉原正喜(熊本工)は44年10月、ビルマ戦線で。25歳だった。川上哲治と甲子園でバッテリーを組んだ。
 一塁守備のうまさから“タコ足”の異名を取った黒鷲の中河美芳(鳥取一中-関大)は24歳。南海の鬼頭数雄(中京商-日大)は川上と争って首位打者に輝いた好打者だったが、44年に27歳で亡くなった。阪神の三輪八郎(高崎中)は満州遠征で巨人をノーヒットノーランに抑えた実績を挙げながら22歳で散った。
 このほか、巨人の米国遠征で俊足を見せた田部武雄(広陵中-明大)は39歳で、阪神のエースとして巨人キラーだった“酒仙エース”こと西村幸生(三重・山田中-関大)は34歳で亡くなっている。
 戦時中は徴兵のため選手数が減った。その中で孤軍奮闘して病に倒れたのが南海の神田武夫である。京都商で沢村の後輩。実働2シーズンで716.2回を投げ49勝、防御率1.36。酷使もたたって結核で亡くなった。21歳だった。
 戦地から帰らぬ人となった彼らは、プロ野球の草創期を担ったメンバーだった。年齢から考えても戦後の活躍は間違いなかった。勝算がほとんどなかった戦争に巻き込まれたのは不運としかいいようがなかった。戦死した選手の名前を刻んだ「鎮魂の碑」が東京ドームの敷地内にある。(続)