「菊とペン」(39)-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎休養からいつ戻って来るんですか?
 風薫る季節である。プロ野球が開幕して約1か月が経った。開幕前、当クラブで順位予想を行ったが、さて私の予想はと言えば、現在は的外れもいいところだ。
 セ・リーグの本命を巨人に推したのだが、ご存じの通り、原辰徳監督率いるチームは下位でもがいている。4月は単独最下位に転落し、このままでは原監督に「休養があるのでは」という臆測まで飛んだ。巨人の球団史を振り返って、監督がシーズン途中で休養した例はない。原監督が万が一でも休養となれば、それはそれで大ニュースとなるだろう。
 私はプロ野球記者1年目に監督休養を経験した。1981年の大洋(現DeNA)ホエールズの土井淳監督である。競馬担当から希望のプロ野球担当に配属されたばかりだった。この年の大洋は実に弱かった。開幕からチームの調子は上がらず、8月には最下位が決定的となった。優勝した巨人にはからっきし弱く4勝20敗2分と大きく負け越して、「横浜大洋銀行」とまで呼ばれた。
 ところで大洋本社は巨人監督を解任された長嶋茂雄氏に代理人を通して接触していた。ミスタープロ野球を救世主として監督に招請したいと考えていた。こんな動きは必ず漏れる。大洋の不振も相まって報道合戦は過熱していった。そしてとうとう同年の9月24日、大洋本社の中部藤次郎社長が記者会見で第三者を通じて交渉中であることを明かした。
 当日、私は記者会見から試合のある横浜スタジアムへ回った。この試合も負けた。そして試合終了後、中部社長の記者会見の煽りを受けて土井監督の休養が発表された。土井監督にしても指揮を執っている最中に本社が次の監督候補に交渉中というのだから、やっていられない。こんな気持ちもあったと勝手に推測する。
 監督代行は山根俊英投手コーチだった。当時53歳、戦後から活躍し58年に現役を引退。温厚な方で私は可愛がってもらった。親子のような年齢差だったこともあったのだろう。投手の調整法などを優しく教えてくださった。
 翌日から山根さんが指揮を執った。2人っきりになって聞いた。
 「なぜ山根さんが監督なんですか?」ストレートである。
 「プロ野球界ではこんな時(監督休養)はベンチで一番年上のコーチが代わって指揮を執るのが慣例というか、まあ決まりになっているんだ」
 「で、土井さんはいつ帰って来るんですか?」
 しばし私の顔を眺めて、「ン、?、どうなのかな…」
 相当な変化球だったのだろう。私は「休養」というから一時休んで英気を養い、また指揮を執る。こう思っていたのだった。
 さすがに山根さんも苦笑いをしていた覚えがある。無知もいいところだった。後になって事実上の解任だったことを知る。最初から解任と言えばいいではないか。1人空しくつぶやいたのだった。
 山根さんは残り10数試合の指揮を執って、翌年から3年間2軍監督を務めた。以来、「休養」と聞くと、山根さんとの会話を懐かしく思い出す。今回もまた、「原監督休養」の風説で記憶呼び戻しのスイッチが入ったのだった。(了)