「プロ野球ニュース」の思い出

-キャスターを務めた佐々木信也-

▽パ・リーグ球団から感謝をいただく

「プロ野球ニュース」のキャスターをやめて30年も経つというのに、日本中どこへ行っても「あのころ”プロ野球ニュース”を毎晩のように見ていましたよ」とよく言われます。野球ファンにとって、あの番組がいかに喜ばれていたか、評価されていたかが分かります。
私は1976年(昭和51)から番組を担当し、いろいろなことに出会いました。その中で大変うれしかったのは、パ・リーグのどの試合を見に行っても、球団の関係者から大歓迎されたことです。それまで野球のテレビニュース放送はセ・リーグ中心でした。せいぜい3分から5分のスポーツニュースの中で、パ・リーグはわずかしか取り上げてもらえず、例えてみれば“冷や飯”を喰わされてたという状況でした。
 「プロ野球ニュース」の中で約3分のヒーローインタビューがあり、ギャラは確か3万円のはずでしたが、日本ハムやロッテの球団職員が「うちの選手を出していただけるだけで光栄です。ギャラなんて受け取れません」と言っていた、と局に帰ってきたスタッフが感激していたのを覚えています。
 あの番組の成功の原因はいくつかありますが、系列各局の競争がその一つに挙げられます。東京のフジテレビ、名古屋の東海テレビ、大阪の関西テレビ、広島のテレビ新広島、福岡のテレビ西日本といった各局のスタッフがそれぞれエースアナウンサーを起用、司会進行役の私も無意識のうちに各局の競争意識をあおっていたように思います。

▽放送できなかった“サイン盗み”の実態

私は、生々しいホットな話題を提供しよう、と努めましたが、困ったのはどこまでしゃべっていいか、ということでした。例えば、キャッチャーがピッチャーにサインを出す場面があります。このサインを盗む行為が盛んに行なわれていました。初期のころは、対戦相手の赤色や黄色のシャツを着た球団職員が双眼鏡を持ち、センターのバックスクリーン横で立ったり座ったりしてサインの内容を味方に知らせていました。
 こうした伝達方法は、次には無線になり、最後にはセンターにビデオカメラを設置し、レンズをキャッチャーの下半身にズームアップするまで進化しました。その“絵”をベンチ裏のスタッフが解読して、バッターに知らせていました。
 私は、試合前にスタンドのセンター付近まで行き、設置されてあるカメラを1台ずつチェックしました。本来は、コミッショナー事務局の職員がやる仕事ですが、私は自分の目で“スペイ行為”を確かめました。しかしながら、結局この問題を番組の中で取り上げたことはありませんでした。
 「プロ野球ニュース」が放送されている間にも、各チームのサインは複雑になるばかりで、キャッチャーは何回も指を出し、足し算、引き算も使われていたようです。ベンチからコーチ、コーチから選手に出すサインも組み合わせのサインで時間がかかり、当時の平均試合時間は3時間15分前後でした。

▽サインはグー、チョキ、パーで

番組のキャスターとして、知っていることをどこまで話していいか、神経を使いました。仕方がないので、テレビを見ている人に判断してもらうような話し方をしたことが何度もありました。
 現在のプロ野球を何カ所か根本的に変えて欲しいと考えています。例えば、サインです。
 私がプロ入りした56年の平均試合時間はセ・リーグが1時間57分、パ・リーグが2時間2分、約2時間でゲームが終わっていました。その要因はあらゆるサインが簡単だったからです。
 当時の監督だった水原茂さん、三原脩さん、鶴岡一人さん、みんな自分がコーチスボックスに立って、自分でサインを出していました。出し方は瞬間的に分かる「フラッシュサイン」で、原則的にひとつの動作でOK。コーチスボックスでのホームベース寄りで出したときだけ有効、ほかの場所で出したときは無効といった具合です。
 毎日オリオンズ時代の別当薫監督が使っていた「ブルーブルーヒットエンドラン」は、帽子のつば、アンダーシャツ、胸のマークなど、ブルーの個所を2回さわると有効、1回や3回は無効という、いかにも別当さんらしいスマートなサインでした。
 ピッチャーに出すキャッチャーのサインも「グー」が直球、「チョキ」がカーブ、「パ-」がスライダーといった具合でした。東映フライヤーズの速球投手だった土橋正幸さんなどはグーが好きで、安藤順三捕手がもたもたしていると、ピッチャーマウンドからグーを出してすぐに投げていました。
 2016年のセ・パ両リーグの平均試合時間は3時間13分でした。両リーグ合同会議を開いてサインをグー・チョキ・パーに変更、盗みをしたチームには罰金1億円というルールを作ったらどうでしょう。

▽もし今「プロ野球ニュース」があるのなら・・・

実は何年か前、あるコミッショナーと帝国ホテルで二人きりで昼食をしました。その時、私の考えを話しましたが、何の変化もありませんでした。つまり、変える意思も勇気もなかったということでしょう。今、もし「プロ野球ニュース」が続いていて、私がキャスターをしていたら、いろいろ工夫をして効果的なプロ野球改革を提案するだろうと思います。
 現在、各球場の雰囲気が変化してきて、以前のようなボールパークではなくなってきていると感じます。私設応援団の中ではしゃいでいる人たちは楽しいでしょうが、かなりの数の野球ファンがあの騒音に否定的な考えを持っているからです。
 いつの間にか私も80代半ばになり、いつお迎えがきてもおかしくない年齢になってしまいましたが、まだまだ日本のプロ野球をより魅力的なものにしたいという意欲は消えていません。まず、第一にもう少し若い、実行力のあるコミッショナーを選出する。そして、グー・チョキ・パーの復活。そのへんから始めたらいかがでしょう。(了)

佐々木信也(ささき・しんや)略歴 1933年10月12日生まれ、神奈川県出身。
神奈川・湘南高時代の1949年、夏の甲子園で優勝。慶大では二塁手、主将を務める。56年に高橋ユニオンズに入団し、新人で180安打(リーグ最多)、打率6位、34盗塁を記録、二塁手のベストナインに選ばれた。60年から解説者。76年からフジテレビ「プロ野球ニュース」のキャスター。同番組は全試合をコンパクトにまとめた放送が人気を呼び、プロ野球の発展に寄与した。(了)