第2回 「川崎球場」(取材日2006年4月上旬)

◎川崎球場とサンデー兆治

「儀式」はいつも通り進んだ。白いエナメルのスパイクシューズに真新しい白の靴紐を通す。アンダーストッキングを履く。これも新品だ。ウォームアップを終えるとベンチ裏で汗を拭い、アンダーシャツを着替える。そして、先発投手。
 1985年(昭和60)4月14日、西武との開幕戦。ヒジの手術から戦列復帰した村田兆治(当時35歳)にとって実に1078日ぶりの「儀式」だった。
「新品にこだわったのは、ボクにとって今日が最後かもしれない、この試合に懸けたい。モチベーションの問題です」
 スタンドは2万1000人の観客で超満員だった。西武の1番打者石毛宏典への第1球はもちろん、渾身の力を込めたストレート。1球ごとに投げられる喜びが重圧と痛みへの不安を吹き飛ばしていった。
 驚いた男がいた。この試合の球審を務めた新屋晃(51歳)である。
「エッ、この人は本当にヒジにメスを入れた投手なのか! 生きたボールがびしびし来ている」
 新屋は日本ハムの内野手時代に村田に散々捻られた苦い経験を持つ。その都度、監督の大沢啓二に怒鳴られた。
「フォークボールが来る前に打つんだ! 馬鹿野郎」
そんなこと百も承知。だから速球を狙っているんだけどかすりもしないのだからしょうがない。現在、埼玉・上尾市でスポーツ店を営むがマスク越しに見た村田の剛速球は今も瞼に焼きついている。
 球場の一塁側脇でのれんを出していた「球場ラーメン」の3代目店主、金子雅幸(38歳)も復活劇の一部始終を目の当りにした一人だ。もう、居ても立っても居られない。商売そっちのけで内野席と外野席の間の通路からそっとグラウンドをのぞいた。ここは彼の「指定席」である。
「いつも練習を見ていたけど、兆治さんは投球練習が終わるとバケツに張った氷水にヒジを突っ込んで冷やしていた。あの姿が忘れられなくて」
帰ってきた村田の雄姿に涙が止まらなかった。
 7回まで被安打6本、無失点の力投が続いた。しかし、村田も人の子、球数が110球を越した8回に右腕の感覚が薄れ、足に痺れがきた。二死を取る。と、監督の稲尾和久がマウンドに歩み寄った。
「兆治、代わろうか。次もある。ここで代わるのも野球だよ」
諭すように言った。稲尾も肩痛で散々苦しんだ経験を持つ。村田のヒジにメスを入れた主治医のフランク・ジョーブ博士も100球をメドと指示している。でも、村田はボールをお尻の後ろに隠してマウンドを下りようとしない。
「完投できなければ復活ではない」
と考える男だ。結局、155球を投げて完投した。落合博満の2本塁打など打線の援護もあって6-2で村田は勝った。座右の銘「人生、先発完投」を地で行く勝利である。
 村田とヒジ痛の付き合いは、33歳の82年5月17日にさかのぼる。近鉄戦の1回表、マウンド上で後頭部に突き刺さるような痛みが走った。右ヒジの腱が切れたのだ。翌年の8月、渡米してジョーブ博士の執刀で左手首の腱を右ヒジに移植する手術を受けた。右腕が伸びるまで3ヶ月、厳しいリハビリとの闘いが続いた。
 84年10月のある日、和歌山県の白浜温泉で温泉治療していた村田を父与行(享年78)が入院先の枕元に呼び寄せた。残り少ない命と闘っていた父は聞き取れないほどのかすれ声で訴える。
「兆治、持っていけ、これを持っていけ」
見ると自分の右腕を突き出している。オレの腕をやるからこれを使って投げろ、と言うのだ。それから数日後、父は息子の復活を見ることなく息を引きとった。
 復活した村田は中6日空けて登板した。つまり、日曜日ごとに投げる“サンデー兆治”の誕生である。村田はこの年、開幕から11連勝するなど17勝5敗をマークした。手にしたカムバック賞は痛みの代償である。サンデー兆治は手術後に60勝を積み重ね、通算215勝ものにして、90年を最後に22年間の投手生活に幕を引いた。
 村田たちの本拠、川崎球場は独特な雰囲気があった。フアウル区域が狭く客席の野次が選手の耳を突き刺した。ブルペンがグラウンド内にあってミットに吸い込まれるボールの音が心地よかった。
「ここが好きなのは、土の匂いがして、野球の音がすることだ」
作家の赤瀬川隼の川崎球場礼賛である。手動式のスコアボードにオンボロの客席、ネット裏の記者席は土埃で真っ黒、いつも雑巾がけして座った。
しかし、この球場はハイテク機器を備えた新しいドーム球場の冷たさとは対照的に、親しみやすさと温もりが漂い、それでいて熱いドラマの舞台であった。(了)
「川崎球場メモ」
開場1951年、神奈川県川崎市。52年~2000年。両翼91m、中堅120m。実測では両翼90m、中堅103mといわれる。3万人収容。54年6月にナイター設備が設置。川崎市の京浜工業地帯には多くの企業があり社会人野球が盛んだった。その企業が共同出資して設立した◆右翼が変形で打球が場外に飛び出さないためスタンド後方に防球ネットが張られていた。54年に発足したばかりの高橋ユニオンズがフランチャイズにしたほかトンボ,大洋、ロッテの本拠として親しまれた。グラウンドもスタンドも狭くて湿気が多く、トイレは男女共用と評判の悪さで知られていたが、熱いドラマが多く「川崎劇場」ともいわれた◆スタルヒンが史上初の300勝を飾ったのもここ。6年連続最下位の大洋が“三原マジック”で優勝、王貞治が「一本打法」を披露し、700号をマーク。張本勲が3000本安打した。ロッテが近鉄の優勝を阻んだ「10・19の死闘」も有名。老朽化がひどく2000年にスタンドが解体され、今はナイター用の鉄塔の残骸が面影を残す。(了)