第2回 正力松太郎の登場と英断

▽全国野球ブーム

 1922年(大正11)に発足した初のプロ野球団体だった芝浦協会は、2年間ほどで解散の憂き目に遭った。資金難もあったが、関東大震災の避難所として本拠地グラウンドを接収され、興行できなかったことも大きな原因だった。
 そんなアクシデントをよそに、大正から昭和にかけて野球は全国に広がり、大変なブームになっていた。15年夏、全国中等野球選手権(高校選手権)が始まり、24年には選抜大会が後を追い、旧制高等学校も第1回全国大会を開催した。東京六大学リーグ戦がスタートしたのは17年(当時4大学)のことだった。昭和に入ると、27年(昭和2)に社会人の都市対抗、31年には東都大学リーグと関西六大学リーグが始まっている。
 過熱は当然のごとくスカウト合戦が起こった。鳩山一郎文部大臣が「野球統制令」を発布したほどである。それ以前に大手新聞社が「野球害毒論」を連載し、大論戦を繰り広げたことがあったが、若者はものともせずにボールを投げ、バットを振った。

▽ビジネスになる、と正力の眼力

 のちに“プロ野球の父”と称えられた正力松太郎が野球界に登場するのは昭和の初めである。警視庁の官僚から読売新聞社長になったのは24年のことで、部数拡張の材料を求めていたとき、知人の新聞記者から話を持ち込まれた。
 「ベーブ・ルースを呼んでみないか」
 この記者はほかにも話を持っていったのだが、ギャラが高くて手を出してこなかった、という。その額は25万円、現在なら10億円ぐらいか。
 「オレが呼ぶ」
 「本気ですか!」
 「本気だとも」
 29年(昭和4)夏の雑談から一気に話は飛んだ。
 正力には、野球はビジネスになる、との読みがあった。第一の根拠は全国野球ブームだったことである。とはいうものの社内からは「無茶な話」と批判が出た。社運を賭けるような興業なのだから当たり前だろう。
 プロ野球と名乗った団体が次々と解散したことは良い材料ではない。正力はその原因を分析した。本格的なプロチームだった芝浦協会は関西に流れ、阪急の小林一三に拾われて宝塚協会と名乗った。これも短命に終わっているのだが、正力は「競争原理が働いていない」と原因を見抜いた。確かに、芝浦協会はほとんどが学生チームと試合をしていたし、宝塚協会も相手は大学や社会人だった。
 プロ野球リーグを作り、2リーグ制とし、さらに大リーグを追い越せ、と言い、実現した正力の壮大な夢の端緒がルースを招く英断だった。大英断である。

▽ルースと大リーグ

 ルースの名声が大正から昭和にかけて日本で知られていたのは、正直言って驚きである。けれども大学チームが米国遠征を行い、大正時代に大リーガーが来日していることを考えると、分からないでもない。おそらく日本のビジネスマンが米国での目撃談をあちこちで話しまくったのだろう。
 世紀の本塁打王、ルースが大リーグのレッドソックス入りしたのは14年。大正3年のことである。投打二刀流。投手としては20勝を挙げたし、ワールドシリーズでも勝った。その素質よりも打力の方がはるかにすごいということで、数年後には打者一本となった。ヤンキースに移籍した20年に54本、翌年59本、27年には60本とシーズン本塁打を量産した。
 この活躍は19年の事件、ワールドシリーズでホワイトソックスがレッズに故意に敗れたいわゆる「ブラックソックス事件」の悪評を一気に払拭した。大リーグの救世主であり、中興の祖でもあった。当時は禁酒法の時代で、マフィア闘争で明け暮れていた社会にとってルースの本塁打は“希望のアーチ”だったことだろう。
 そのころの大リーグはスーパースターがそろっていた。ルー・ゲーリッグ、タイ・カッブ、ロジャース・ホースビー、トリス・スピーカーらの打者、投手にはグローバー・アレキサンダー、ウォルター・ジョンソン、レフティ・グローブ、レフティ・ゴーメッツら。
 正力はそんな大リーガーを「日本に呼ぶ」というのである。この勇気と決断がなければ日本のプロ野球に今日の姿はなかったといっていい。(了)