「年俸更改交渉」の思い出 岩本堯

-巨人で年俸査定した岩本堯-

▽査定項目は約500、夜中過ぎまでチェック

今年の大リーグでは多くの有力なFA選手の移籍先がキャンプインの時期になってもなかなか決まらず、異例の事態になっているようだ。年俸更改交渉はプロ野球のシーズンオフの風物詩だ。球団と選手が丁々発止で交渉、来季の年俸を決め、スッキリしてキャンプインする。かつては越年をして粘る選手もいたが、最近はほとんど見られなくなった。それだけ選手の年俸、待遇が良くなったのだろう。私は王監督が巨人を指揮していた1984年から90年(昭和59年から平成2年)の数年間、巨人で査定担当を務めた。当時を振り返っても、最近の選手の年俸のアップぶりには驚くばかりだ。
 私が査定を担当するようになったのは偶然だった。現場を離れてフロント入りしたとき、たまたま球団事務所で当時の査定担当者が仕事をしているのを見た。選手の評価が原稿用紙一枚ほどの大きさの紙に書かれてあった。
 「なんや、それ?」
 聞くと選手の年俸を決める査定表だという。あまりの大雑把さに選手が気の毒になった。私は現役引退後、近鉄で監督を務め、大洋(現DeNA)など複数の球団でコーチとして指導した。その当時、現場から見たら、もっと上がってもいい選手の年俸が低く抑えられているケースをしばしば目にした。以前はどんぶり勘定というか、どの球団でもしっかりとした査定がほとんどなされていなかったようだ。
 「そんなら私がやるわ」
 敢えて査定担当を買って出たのである。それから巨人の全試合に帯同。試合が終わると自宅やホテルで選手ひとりひとりの評価をした。
 査定項目は約500。それをすべてチェックしてその試合の査定が終了する。試合ごとに累積して数字に表す。打者なら打率、打点、本塁打、投手なら勝ち数、負け数、防御率など数字に表れたものだけでなく、ヘッドワークやチームプレーなど表面に表れにくい貢献もポイント化にした。
それを新聞紙を広げたくらいの大きさの査定用紙を印刷して選手個々用に作り、それぞれの評価を書き込む。査定が終るのが夜中の2時、3時になることも珍しくなかった。
 また監督、担当コーチからも話を聞いた。現場の目から見た選手の評価を聞き、それも査定の参考にするためだ。

▽新査定に「もっと儲かったのに」と江川

年俸更改の席でもめるのは球団にも選手にもマイナスになる。イメージダウンにつながりかねないからだ。それで主力選手には交渉の前日に電話をして球団側の評価を伝える。選手の希望年俸を聞き、その上で「いくら欲しいのか、もう一度よく考えてくるように」と伝えた。
 当時の巨人の主力は野手なら中畑清、篠塚利夫(現和典)、投手では江川卓、西本聖らである。
中畑や篠塚は私が巨人の二軍監督時代の教え子だ。手取り足取り打撃を教えた。江川、西本も同じころ二軍を経験している。だからなのか、当時の長谷川代表に釘を刺されたものだ。
「教え子ばっかりだから、〈査定を〉甘くしたらあかんぞ」
 交渉の席でもめることまずなかった。事前に選手の希望を聞いていたこともあるが、莫大なデータから選手の評価を数字で示していたからだ。選手の質問にも即座に応えられた。もちろん、時には交渉の席で希望金額から上積みするケースもあった。
 このやり方を一番喜んだのは江川だった。
 「もっと早くこの査定法でやってくれたら、もっと儲かったのに」
そう言われたものだ。
 投手は勝ち負け以上に投球内容を重視した査定をした。打線の援護の有無が勝ち負けに影響する。実際、江川はなぜか好投しても打線の援護に恵まれないことが少なくなかった。
選手のプライドにも配慮することもあった。あるシーズンの査定でそれまで長く主力で活躍してきた選手が年俸で後輩に抜かれた。そこで交渉の席で私はその後輩選手にこう頼んだ。
 「新聞記者に聞かれたら正直な金額を言わずに、○○だったと話してくれないか」
 その選手は私の要望を聞き入れ、実際の年俸より低い金額をマスコミに公表した。
 来季、活躍しそうな選手には、成績に関わらず「期待料」を上乗せすることもあった。あるいはシーズン中の査定が低かった選手が日本シリーズで活躍すると、それを年俸査定に加味したこともある。年俸更改交渉で大切なのは「来季も頑張って欲しい」という球団の気持ちを選手に伝えることだ。アップした選手にはさらなるやる気を出させ、ダウンした選手の意欲も引き出さなくてはならない。
 それでも当時は「3年続けて活躍して初めて一人前の選手」というのが球団の方針。1、2年の活躍では大幅にアップすることはほとんどなかった。
 今は複数年契約や出来高払い、FA移籍選手など、以前と比べて考慮する点が多くなっている。そうしたことはどういう根拠で年俸査定に計算、反映されているのか。それが昔のどんぶり勘定に戻ることにつながっていないか、いささか気になる昨今である。(了)


岩本堯(いわもと・たかし) 1930年4月20日、和歌山県出身。県立田辺中学から早稲田大を経て、53年巨人入団。59年に大洋に移籍。62年から打撃コーチ。69年から近鉄打撃コーチ、71年から73年まで同監督。その後、日ハム二軍監督などを務め、77年に二軍監督として巨人に復帰。中畑清、篠塚利夫、松本匡らを育てる。84年からフロント入りし渉外担当、査定担当などを務めた。渉外担当としてR・スミス、W・クロマティらを獲得した。(了)