第5回「西宮球場」(2)完

▽だれもが驚いたけん制アウト

ある日,鈴木も気付く。「これや」。打者と走者を2度見るあのクセだった。早速、修正にかかった。
 72年9月26日、阪急対近鉄(西宮)は福本にとってモーリー・ウイルス(米大リーグ・パイレーツ)が持つ104のシーズン最多盗塁の大リーグ記録更新がかかっていた。近鉄のマウンドには鈴木がいた。4対4の4回、2死後、福本は四球で出塁すると一塁側スタンドに向かってテレながら軽く手を挙げた。
 「営業から言われてましてん、走る前にスタンドへ手を振ってくれって」
 西宮球場は客の入りが悪くいつも閑古鳥が鳴いていた。この日も優勝がかかった試合というのに1万8千人しか入っていなかった。球団としては少しでもフアンサービスをと言う訳である。
 福本はリードをとった。「楽勝や」って感じで。1塁側1階席には私設応援団「八二会」が陣取っていた。メンバーのひとり杉本節夫さん(当時62)も「さあ、行きよるぞ」と腰を浮かして福本の足元を見た。が、次の瞬間、けん制でタッチアウト! 
 「もうびっくりもええとこですわ。あの福さんが……」
 福本が明かす。
 「こっちも研究したけど相手も学習していたんやね。クセを直していた。打者と走者を見る回数が1回多かった」
 神部の場合も苦労した。あるとき画面に三本の横線を引いてみた。頭、肩、腰の部分に。
 「あっ! 体が浮き上がっている」
 一塁へけん制するとき立ち足の左の踵が上がって一度体が浮くのだ。「いざ打者と勝負」と言わんばかりの巧妙な動作だ。実際に打者へ投げる場合は体がほとんど上下動していなかった。謎は解けた。

▽勇者が戦った跡地に涙

観察力と言えばこんな話もある。福本の足封じで南海が考えだした「クイックモーション」への対応だ。カギは「投手の背中にある」と福本は言った。
 「右投手だと、打者へ投げるときは背中に緊張感がみなぎる。けん制する場合はゆったりしているんです」
 素早く投げようとする投手の心理は緊張感となって体の筋肉に表れる。それを見事に読み切った観察眼である。
 盗塁を狙う走者の盗塁への価値観は、大別して二通りのタイプがあるように思う。
 福本は隙さえあれば盗塁を狙うタイプだ。お客さんはオレの足を観に来ている、とその期待に応えようする。
 対照的に広瀬叔功(南海)は福本と甲乙付けがたい俊足の持ち主だが、ここという場面で決めてこそ価値がある、という信念の持ち主だ。
 福本は2401試合で1065盗塁を成功させ、13シーズン連続、13回の盗塁王になった。広瀬は2190試合で596盗塁をマーク、5年連続、5回のタイトルに輝いている。数字だけ比べて二人を同じまな板で論じるには無理がある。
 福本がデビューする前の「足のスペシャルリスト」が広瀬で、それぞれがポリシーを持った「足のプロ」なのである。
 福本と会った翌日、彼らの舞台だった西宮球場の跡地を訪ねた。阪急西宮北口駅の南出口から高松町方面に出ると、そこには金属製の高いフェンスが約8万平方メートルの更地を囲っていた。2008年11月に日本最大級の商業施設「阪急西宮ガーデンズ」が完成した。福本も商業施設が完成するまで3度足を運んだそうだ。
 フェンスで中が見えないから右翼側の陸橋の上から見た。
 「ただ広く感じただけ。自分たちの野球もこれで終わったと思いましたね」
 涙がこぼれたそうだ。
 球場脇の高松町の路地を歩くと昔からの店が何軒かあった。おでん屋にすし屋、中華料理店や理髪店も。選手たちの憩いの場だった喫茶店「ひさご」も店を開けていた。経営者の形山千恵子さんが言う。
 「あのころが懐かしいですねえ。福本さん、山田さんら皆さんマイ・コーヒーカップを置いてはりましてね」
 練習日には汗を流した帰りなどに立ち寄ってコーヒーでひと息入れていた。ところが、95年1月17日の阪神淡路大地震でほとんどのカップが壊れてしまった。
 「残ったのは山田さん愛用のこのカップだけ」
 受け皿に乗った白い小さなカップから“勇者たちの体温”が伝わってくるようだった。(了)
「西宮球場メモ」
兵庫県西宮市。1937年~2002年。別名西宮スタジアム。両翼91.4m、中堅118.9m。5万5000人収容、大リーグ、シカゴ・カブスのリグレースタジアムがモデル。53年にナイター設備設置◆高校野球との縁も深く、こけら落しは37年5月1日に滝川中―浪商、興国商―甲陽中が組まれ、戦後の復活大会(第28回全国中等学校優勝野球大会)も阪神甲子園球場が米軍に接収されていた関係でこの球場で開かれた。食糧難の時代で早く負けた学校が勝ち残っている学校に持参の米を贈って帰郷する美談が話題になった◆プロ野球は開場4日後の5日、阪急ー名古屋、巨人―イーグルスの変則ダブルヘッターが最初。西本幸雄、上田利治両監督の指揮でチームは強くなったが観客が入らないので有名だった。49年から競輪場としも使われ、こっちは賑わった◆88年に阪急がオリエントリース(当時)に球団を譲渡、91年にオリックスが本拠を移転したことなどで02年に閉鎖された。球場周辺の急速な開発で景観はすかり変わり、跡地には大規模な商業施設が予定されている。(了)