江夏豊インタビュー(3)(菅谷 齊=共同通信)
◎先発と抑えの“二投流”で成功した男のピッチング
―江夏豊略歴―
1948年5月15日生まれ。兵庫県出身。67年、大阪学院高からドラフト1位で阪神入り。新人で12勝を挙げ、225三振で奪三振のタイトル獲得。2年目に25勝で最多勝、401三振のシーズン最多記録をつくる。69年は防御率1.81でタイトルに輝くなど本格派として一時代を築く。76年に南海に移籍してからクローザーに転向し、その後、広島や日本ハムを優勝に導いた。広島時代の日本シリーズで最終戦の最終回、無死満塁を抑えた投球は“江夏の21球”として有名。通算206勝210セーブポイントを記録し、先発とクローザーで成功した唯一の投手。名球会会員。
中学校を卒業して就職するつもりだったのが、大阪学院高に進み、しかも陸上部の砲丸投げの選手なのに野球をすることになった、進学も野球も、すべて恩師が道を開いてくれた。左腕投手江夏のスタートである。
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―高校の練習はどんな感じだった?
江夏「部員が好き勝手に練習している、というのが当たっているな」
―監督はどんな野球を?
江夏「野球をまったく知らない人だった。だってラグビー出身だもの」
―練習の内はを…。
江夏「走ることばかり。とにかく走らされた。なにしろラグビー出身の監督だからね。走るのがすべて、という監督だった」
―足腰が強くなっただろうね。
江夏「そう、それがピッチングにいい影響を与えた。下半身が強くなければ、いい球を投げられないからね」
プロ野球に入り、剛速球で鳴らした男が高校時代、そんな練習に明け暮れていたことも驚きである。
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―それじゃ、ピッチングの何かを教わるどころではないな。
江夏「その通り。ただ投げているのが練習。ひたすらビュンビュンと投げていただけ」
―変化球とかは?
江夏「あるわけがないだろ。一度も指導されたことなどなかった」(笑)
―話を聞いていると、投手の基礎練習だな。
江夏「そうなんだ。走りこんでた体を強くし、ストレートを投げ込んで肩を強くする。まさにピッチャーの育成だった。江夏の基礎は高校時代にあったと言っていいね」
―ラグビー監督に感謝だ。
江夏「おっしゃる通り」(笑)
すでに剛腕は高校時代に発揮される。ストレート一本で、今度は自分の左腕で道を切り開いていく。
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―高校時代の投手成績は?
江夏「最初に投げた試合はひどかった。ストライクが入らない。行き場所はボールに聞いてくれ、というピッチングだった」
―いわゆるノーコンだ。
江夏「それからストライクを投げる練習に取り組んだ。といってもど真ん中に投げる練習だけどね」
―さほど野球に夢中ではなかったのに、よく飽きずに続けたな。
江夏「実はね、野球に引き込まれたのは硬式ボールの音だったんだ。バットで打ったときの音、打ったときの手の感触。それにたまらない魅力を感じていた。当時の木製バットの良さだね」
―人より速いボールを投げられていたからでななかったんだ。
江夏「きっかけはボールの音」
日増しに速球は勢いを増し、ストライクも入るようになった。野球の投手らしくなったのである。そして将来に結びつく快投を見せた。
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―練習の成果が出た試合は?
江夏「浪商(現・大体大浪商)に勝ったんだ。それもシャットアウト」
当時の浪商は強豪で知られ、甲子園の常連だった。1961年夏、2年生の尾崎行雄投手で全国優勝している。高田繁が1年生で左翼を守っていた。江夏が中学1年生のときで、関西球界が大いに盛り上がっていた時代である。その名門校を無名高校の無名投手がやっつけたのである。(続)