「評伝」近藤昭仁(こんどう・あきひと)―2019年3月27日、80歳で死去

◎新人で日本シリーズMVPの“超二流”

近藤さんの現役時代のハイライトは1960年、大洋のルーキーイヤーである。5月に二塁手レギュラーに定着、終盤にはトップバッターを務めた。高校(高松一)、大学(早大)の大先輩である三原脩監督の下、リーグ優勝。大毎との日本シリーズでは、第3戦に勝ち越し本塁打。日本一を決めた第4戦では先制タイムリー。なんと3安打(15打数)、1本塁打、2打点でMVPをかっさらってしまった。「諸先輩に申し訳ない気持ちだった」と微妙な表情で記念撮影に応じている。
 この勝負強さと、気性の激しさがこの小兵(168㌢、65㌔)の真骨頂だ。先発から外されると、三原監督に「私を使ってください」と直訴したこともある。堅実な守備と62年から4年連続で犠打リーグトップを記録するなど、2番打者としてチームを支えた。「時に応じて一流をしのぐ超二流」という三原監督の名言を体現した男でもある。
 72年“ライオン丸”ジョン・シピンの入団で二塁を明け渡しながらも、遊撃、三塁、外野を守って試合に出場。「セカンドをやっていたらセンターは楽なもの。正面のライナー打球さえこなせれば簡単さ」と、後日聞いた。兼任コーチだった73年で引退したが、現役終盤から指導者の道を模索していた。
 72年オフに、当時球団職員だった牛込唯浩さんとともにメジャーリーグを自費で視察に行っている。この年大洋に入団した名手クリート・ボイヤーの影響があったのだろう。
 コーチ修行は79年のヤクルトからスタート。その後、広岡達朗監督率いる西武、藤田元司監督の巨人で、内野守備(三塁ベース)コーチ、ヘッドコーチに就任する。私が近藤さんを取材したのは、西武コーチ時代以降である。コーチのあるべき姿として当然のことだが、彼は監督の考えを理解し、咀嚼しながら選手に伝えようとした。仕えた監督は、秋山登、別当薫、広岡達朗、森祇晶、藤田元司、原辰徳である。その中でも広岡、藤田両監督はその後の指導者人生に大きな影響を与えた。広岡さんの勝負に対する妥協のない厳しさと藤田さんの人への理解と情の深さに感じ入った。
 あえて鬼軍曹になった。巨人時代、敗戦後の全選手がそろったミーティングで「今日は4番の差で負けた」と叱責。主砲・原辰徳が目を真っ赤にしていた、と伝えられている。原は今でも「指導者たるや、時には鬼になるということを近藤さんに教えていただいた」と感謝の言葉を口にする。
 ここからは私の独断だが、名参謀、有能コーチが近藤さんらしかったのではと思う。誠に失礼な言い方だが、93年からの横浜、97年からのロッテ監督時代は、かつて選手、コーチとして5度日本一になっている自身からすれば、不本意ではなかったのではと思う。監督生活5年間はすべてBクラスで最下位は3度。両リーグ最下位監督の不名誉も担った。殊に98年はプロ野球ワーストの18連敗を記録している。最後は神頼みまでしたが、決してあきらめることはなく、ひたすら前向きに戦っていたという記憶がある。負けず嫌いで気も短いが、心根は優しい人だった。諸手を挙げて、就任した監督の座ではなかった。「自分の力はよくわかっていますよ。監督の大変さは傍から見ていましたから。でもそれが魅力でもあるし、やっぱり面白い」と退任後、語ったことがある。
 近藤さんの奥様はかつて東映のお姫様女優・北沢典子さん。ラブレター攻勢と京都・横浜の遠距離恋愛が当時の女性週刊誌をにぎやかに飾った。最愛の由紀子夫人が喪主を務めた4月1日の告別式。存命なら、この日は近藤さんの81回目の誕生日である。本当は4月10日だ。父親が早生まれで届けたことで、1960年のビッグイヤーも実現したのだ。(山田 收=報知))