「評伝」野村克也

「考える月見草」(6) 
◎王の猛練習と努力に圧倒される
第1回東京五輪の翌年1965年に戦後初の三冠王に輝いたのを始め、野村は8年連続本塁打王や7回の打点王など数々のタイトルを取った。その活躍の背景にあったのは、ON、つまり王貞治と長嶋茂雄の存在である。パ・リーグにいて、なんでセ・リーグの打者対してそんな気持ちを抱いたのか。
「俺は無名の二流選手だ、しかしいつかはトッププレーヤーになってみせる」と、他人にはいえない野心を抱いていた。その思いが、人知れず猛練習に走らせた。ひたすら、セの看板打者に追いつくことをめざし挑戦を続けた。やがて、王に対するライバル意識が強くなった。1971年、王より早く史上初の通算500号本塁打に達した。しかし、王がその記録を破る勢いで追ってきた。
▽酒、女より練習の約束のために
そんなころ、野村は東京・銀座の料亭で王とばったり会った。野村が飲んでいる時、あとから王が仲間と入ってきた。しばらく一緒に飲んで雑談をしたが、王が突然、「ノムさん、悪いけどお先に失礼します」とそっと話した。野村は、「めったにないチャンスじゃないか」と引きとめたが、王はノーというばかり。巨人の荒川博コーチが練習のために待っていて、帰らなければならなかったのだ。野村は、かわいい女の子といた方が楽しいのに、俺なら練習を断るな、と残念がった。
それなのに王は頑ななに練習の約束を守った。それほどまで熱心な練習はどんなものなのか、と興味を覚えた野村は、あとで王の「荒川道場」を見学した。野村は度肝を抜かれた。凄まじい一本足打法の素振りと、刀を使った振り下ろしと、普通ではない真剣さに圧倒された。王は通算本塁打で野村を抜き、1974年に600号に到達した。野村は、次はオレが王を追い越してやるとライバル意識を燃やしたが、自分が不振になり、600号には王から1年遅れてしまった。現役を終えて通算本塁打、安打数、打点は王に次いで2位。「俺の記録はみんな王にもっていかれてしまったよ」と冗談を飛ばしながら、対決をなつかしむ野村だった。
▽立派な野球人に日本一では勝つ
「あれだけ練習し、野球に打ち込む姿は本当に立派だった」と引退後も王の信念の強さと努力を口にした。野村は楽天監督になって、ソフトバンクの王と監督同士の対決をしている。長嶋監督に対するような「挑発行為」はしなかった。それは、王監督の性格からその野球を推察できたからである。オールスターと日本シリーズの対決では、捕手として王にはあまり打たれてなく、王の「野球に対する考え方」を見てきたからだ。監督としては、長嶋が2度、王は1度の日本一なのに対し、野村は3度達成している。野村は、日本一ではONを上回ったのである。(敬称略)(続)