「いつか来た記者道」(29)-(露久保孝一=産経)

◎10代の4番が誕生するために
若きホームラン打者のアーチ量産は、ファンを最も興奮させるプロの華である。それが、10代の4番打者ともなれば期待度が加味して魅力満点だ。
ヤクルトの村上宗隆内野手は2019年、19歳3カ月で4番に抜擢され、シーズン36本塁打、96打点の成績を残してセ・リーグの新人王に輝いた。20年も不動の4番として、チームを引っ張っている。村上の4番は、西武・清原和博以来23年ぶりの10代4番だった。
 村上は2000年の生まれである。その80年前に生まれた名選手に別当薫がいる。生存していれば、20年に100歳になっていた(1999年に78歳で病死)。別当は、豪快なプレーヤーながら物腰の柔らかい選手として知られていた。その男が、プロ解雇寸前の18歳を4番に起用する一大勝負に打って出たのである。
 4番に指名したのは、土井正博だった。土井は1961年、高校から千葉茂監督の近鉄に入団した。1年目はニ軍でプレーを続け、それなりの成績をあげたが、オフになり「お前はもう練習に来んでもいい」と整理要員になった。ところが、監督が別当に代わって様相が一変する。土井はクビになるどころか、別当から「秋の練習に参加しなさい。来年から一軍で使うから、その覚悟で練習せい」と励まされた。
▽18歳を4番にした別当薫の賭け
62年になって、いきなり18歳の4番打者・土井が誕生した。ところが、打てない。バットスイングは鋭かったが、ジャストミートできずに凡退を繰り返した。4三振する日もあった。それでも、次の試合には4番で出てくる。
「打てないバッターをまだ使うのか」とファンから声が飛んだ。この年の土井は、打率.231、5本塁打、43打点。4番「失格」である。が、別当は辛抱した。2年後の64年に打率.296、28本塁打、98打点の成績をあげた。その後、近鉄の主砲になるまで成長した。
別当は現役時代、49年にタイガースの中軸に座り、打率.322、39本塁打、126打点と打ちまくるなど、3拍子そろった「スーパースター」だった。評論家になってからは、さわやかな口調で「球界の紳士」と呼ばれ、眼鏡のHOYAのCMで人気者になった。
「エースと4番は育てられない」とは元ヤクルト野村克也監督の言葉である。
別当は、試合で使いながら大器を磨き上げることに挑んだ。清原、村上はもともと長距離砲のずば抜けた素質があった。そのパワーを試合に出て、一気に開花させた。
土井の場合は結果が出るまで時間がかかった。土井が挫折したなら、別当も「ダメ指導者」の烙印を押される運命にあった。それでも、土井には打球を遠くに飛ばす能力は備わっており、それに別当はほれ込み、非難とヤジに耐えて使い続けた。強打者が強打者をつくりたいという、自分の夢を追っての自分との戦いでもあったのである。別当の執念は、数年後の土井の成功に結びつけた。
▽忍耐強い起用法はお手本?
長距離砲の才能そのものを育てることはできないが、その才能をもった選手の生殺与奪は試合でどう使うかによって大きく変わってくる。ゲームで使いながら選手を主力に成長させる重要性は、いつの時代でも問われる指導方法だ。別当の忍耐強い起用法は、現在でも有効な教材のひとつであるはずである。(続)