「評伝」野村克也-(露久保孝一=産経)

「考える月見草」(10)
◎劣等生が優等生を追い越した
 野村は戦後初の三冠王、8年連続を含め本塁打王9回、監督として日本一3度という輝かし戦績を残した。一般的には捕手の大打者、名評論者のイメージが強い。しかし、野村には長嶋茂雄、王貞治、稲尾和久、中西太らのような野球エリートの華やかなさがない。なぜか。本人が言うように、テスト生からはい上がった選手だからである。
 「ワシがプロに入った当時は、野球が圧倒的な人気スポーツだった。全国からエリートがプロ入りした。ワシはテスト生であり、そんな優等生とは無縁の存在だった。非力で、すぐに捨てられる身だった。だから、ふるい落とされないように誰よりも努力しなければならなかったのだ」 
 野村は、練習に励んだ。が、すぐにはうまくなれない。プロ1年が過ぎたオフに、球団から「お前の能力はわかったから、くに(郷里)に帰れ」とクビを言い渡された。野村はプロに入ったとき、「貧乏なおふくろを何とか助けたい、カネを儲けて仕送りしたい」と心に決めていただけに、ショックを受けた。クビなら親会社の南海電車に飛び込んで死にます、とフロントに掛け合って解雇は免れた。
▽エリートを追って禁欲の猛練習
「チームに残してもらって涙がでるほどうれしかった。それだけに、なんとか力をつけなくてはいけないと2年目は必死だった」
野村は考え、工夫した。「この1年間は死ぬ気でやってやる。酒も賭け事も女も一切止める」。悲壮な覚悟で猛練習に挑んだ。毎晩、何百回と素振りをした。砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。
夏ごろ、二軍監督が選手を集め「お前ら、手を見せろ」と言って、一人ひとりの掌を見た。「そろいもそろって、みんな女の子みたいなきれいな手だな」と憮然とした。野村の番がきた。監督は、目を丸くした。「お前は、ようバットを振っているな」と野村は誉められた。
野村は毎晩、素振りを続けて手はマメだらけだったのだ。試合でヒットを打てるようになりたい、その執念の努力は実った。2年目は一軍出場こそなかったものの、ニ軍で打率2位の成績を残した。3年目の1956(昭和31)年、ハワイ春季キャンプで一軍に抜擢され、以降正捕手に定着した。
▽「頭を使ってやる野球」を開拓
一軍に上がった野村は、テスト生に続きまた劣等感に襲われた。リーグの上をみれば、稲尾、中西、別当薫らスター選手がずらり。無名の者がスターや天才の背中に追いつくためには何をすればよいか。試合、練習のなかで「頭を使うしかなかった」のである。
他チームのデータを集めて投手の配球、打者の打撃内容を研究、分析し、試合で相手攻略の効果を出していった。チーム内での評価はあがった。野村の野球人生である「考える野球」が、ここから始まった。
スターに追いつき、追い越して成績を残し、評論家時代の猛勉強からID野球の解説、名著出版などに結びつけた。劣等生は、大逆転して優等生になったのである。(続)