「評伝」-中村 稔(なかむら・みのる=元巨人、2021年6月2日死去、82歳)

◎口出しするな、投手はオレに任されている
中村さんは投手コーチとして、投手起用に関しては相手が誰だろうと一歩も譲らなかった。
「よけいな口出しはしないでくれ!」
 そう言うと、ミーティング室を出て、遠征先のホテルの自分の部屋に戻って行った。「口出しするな」と言った相手は王貞治助監督。1983年4月15日、甲子園球場での阪神戦で巨人は1-3で負け、連勝が5でストップした。
試合後の首脳陣ミーティングで王助監督は「稔さん、明日の先発、誰?」と聞いた。「槇原(寛己)だよ」と中村コーチが答えると「エッ、槇原?誰か他にいないの?」
 王助監督がそう驚いたのも無理はなかった。槇原は愛知の大府高からドラフト1位で入団して2年目。入団1年目は体力不足などもあり、一軍登板はゼロ。その年もまだ公式戦で投げていなかった。
「1年間のシーズンを通してピッチャーの起用を考えているんだ。ピッチャーのことは俺が任されている」
 そう言ったあとが先の啖呵(たんか)だった。
 しばらくすると中村コーチの部屋がノックされた。藤田元司監督だった。
「稔、まあ、そう怒るなよ。ワンちゃん(王助監督)には俺からよく言っておくから」
 翌日、予定通り槇原が先発。延長10回を5安打9奪三振でプロ初登板初完封。巨人は1-0で阪神に勝った。
 それから6年後の日本シリーズ。巨人は近鉄(現オリックス)にいきなり3連敗。崖っ淵に立たされた。読売新聞社の務台光雄名誉会長がミーティングをしているホテルの部屋に首脳陣の激励に訪れた。ちょうど第4戦の先発が検討されていた。斎藤雅樹か香田勲男か。4連敗を心配した務台社長も斎藤先発を口にした。
斎藤はその年20勝7敗のエース。3-4で負けた初戦に登板、4戦目なら中3日で登板である。座がシーンとする中、
「当初の予定通り、香田でいきます。香田でいけます」
 中村コーチはそういうと席を立って部屋に戻った。しばらくすると部屋がノックされた。藤田監督だった。
「稔のいう通り、香田でいくから」
 香田は近鉄打線を3安打8奪三振で完封。3連敗のあと4連勝で日本一につなげた。
「仮に4戦目に斎藤で勝ったとしても、その後の投手陣のやり繰りはどうするのか。7戦まで戦うことを考えたら香田しかない。第3戦の2番手で投げた水野(雄仁)が緩急をつけた投球で3イニングをノーヒットに抑えた。スローカーブがある香田は絶対、近鉄打線に通用する自信があった」
 のちに聞くと中村コーチは香田にこだわった理由をそう説明した。
 中村は57年に三重の宇治山田商工(現宇治山田商)から巨人入り。61年には17勝、65年には20勝してエースとして活躍した。
 81年に藤田元司監督の元で投手コーチに就任。投手陣を立て直し(チーム防御率2.88)8年ぶりの日本一に貢献。89年に再び藤田内閣で投手コーチに復帰すると、チーム防御率2.56の投手王国を作りリーグ優勝、日本一。翌年は斎藤、桑田真澄、宮本和知、香田、木田優夫の5人が2桁勝利し、シーズン完投70(130試合)という記録を樹立。2位広島に22ゲームをつけて連覇を果たした。
東京ドームで試合があるときは、多摩川グラウンドに投手陣を集め、ランニングをさせてから球場入りさせた。
「東京ドームのグラウンドは下が堅く、走ると足や腰に負担がかかる。それで多摩川で走らせてから球場入りさせた」
キャンプでは時に若手、中堅投手にブルペンでのピッチング練習の最後に、30球続けて外角低めにストライクを投げ切ることを要求。それができるまでは解放しなかった。200球、300球を投げてやっとお役御免となった投手もいた。中には泣きながら投げていた若手もいたというが、そうした練習で制球力と肩のスタミナをつけさせたのである。
投手コーチに高い誇りを持ち、投手の能力を見る目に絶対の自信を持っていた。(荻野 通久=日刊ゲンダイ)