「菊とペン」(26)-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎開幕戦の思い出はあれでした…
 2022年のペナントレースが開幕した。我々OBクラブは開幕前、恒例の順位予想を行ったが、私が取捨選択に迷ったのが阪神である。なんせ指揮官がキャンプ前、「今年で辞めます」と宣言したチームである。選手に悪影響があっても好影響はないと見た。
昨年を振り返っても、結構もろい面がありそうだ。確かに2位だったが、これまでも阪神には散々裏切られた経験がある。迷って5位にした。で、早くもやってくれました。ヤクルトとの開幕戦で7点差をひっくり返されての逆転負けを喫した。開幕戦ではプロ野球ワーストタイ記録だという。
この結果を知って、すぐに思い出したのが1982(昭和57)年4月3日、大洋との開幕戦(横浜スタジアム)である。そう、小林繁氏(故人)の史上初の「サヨナラ敬遠暴投」である。大洋は関根潤三監督の1年目で、私は大洋担当2年目だった。
横浜スタジアムのバックネット裏は現在、一部観客の優雅な「食事処」となっているが、当時は記者席である。わが社の席は本塁のちょうど真後ろである。いま思うと、実にいい環境だった。
さて、この試合の小林氏は絶好調、八回まで大洋打線を散発2安打に抑えて、完封勝利目前だった。阪神が2点リードだ。記者席の私も、「きょうはこりゃ雑感、せいぜい30行かな」と九回裏の攻撃に備えた。
ところで記者席は関西方面から大勢のトラ番記者来襲で〝実効支配〟されていた。いまも昔も変わらぬ光景だ。開幕戦勝利の原稿に向けて、トラ番諸氏から威勢のいい関西弁が飛び交っていた。
小雨が降りだし舞台は暗転する。代打・高木豊が安打で出塁すると二死から連続タイムリーで同点となった。なお一、三塁。当時のルールで延長回への突入はなく、この時点で阪神の勝利は消えた。「雑感はないな。ひょっとしたら40行はあるかな」とは大洋担当の私、  
トラ番記者らは慌てて社へ連絡だ。原稿の打ち合わせが根底から崩れてやり直しだ。で、左の高木嘉が打席に立った。阪神ベンチは敬遠の指示を出した。次打者は右のマークでくみしやすいと判断した。
小林氏の1球目は低めへ。若菜嘉晴捕手は慌てて捕球、2球目は高かった。今度は飛び上がって捕球した。3球目…球場に大歓声と異様などよめきが起こった。大きく三塁側に逸れて、バックネットに当たった。記者席からアッという間に誰もいなくなった。
最初はなにが起こったのか、分からなかった。改めて目の前の光景を見た。小林氏はハマの雨空を仰ぎ、若菜捕手は追いかけてつかんだボールをグラウンドにたたきつけていた。三塁走者の大久保がサヨナラ生還、大洋ナインの輪の中に飛び込んでいた。
関根新監督にとってはまさに棚ぼた勝利である。担当記者の前に姿を見せてまず一服すると、「(最初の2球を)小林が投げにくそうに上から投げていたね。もしかしたらというのはあったよ」と振り返った。
この「サヨナラ敬遠暴投」は様々な憶測を呼んだ。
小林氏は試合後、「緊張したの?」の問いに、「そうかもしれない」と答えたという。後でトラ番記者に聞いた。小林氏は下手投げに近いサイドハンドだった。いつも全力で思い切って腕を振って投げていた。こんなタイプは軽く投げるのが意外と不得手だったのかもしれない。あくまでも私の想像である。
各社ともにメーンは「サヨナラ敬遠暴投」で私は30行ほど書いた記憶がある。ちなみに「敬遠暴投によるサヨナラ負け」は金田正一氏(故人)が52年に記録しているが、開幕戦に限れば史上初だった。
駆け出し時代、先輩記者にこう言われた。「開幕戦は各チームの今年1年の課題やらテーマが詰まっている。しっかりと見るように」。いまでも思い出す。その意味では今年の阪神、スアレスが抜けた穴をどうするか。これが大きなポイントだった。開幕戦で浮き彫りになった。
シーズンは長い。今年の開幕前の予想が少しでも当たるか、それとも惨敗か。ペナントレースを楽しみたい。(了)