「インタビュー」日本人大リーガー第1号 村上雅則(4)「その時を語る」ー(聞き手・荻野 通久=日刊ゲンダイ)

寝耳に水だった1Aからのメジャー昇格。いきなりやってきた初登板。その時の心境、そして結果は…。
―1964年の9月1日にメジャーに上がり、その日にいきなり登板していますね。
村 上「ニューヨーク・メッツ戦で0-4の八回裏に登板しました。『NOW PITCHING NO 10 MASANORI MURAKAMI!』と場内アナウンスがあり、マウンドに向かった。ブルペンからマウンドに行く間、当時、アメリカで流行していた坂本九の『スキヤキ ソング=上を向いて歩こう』を口ずさんでいました。緊張してはいけないと思ったのでしょうね」
―マウンドへ行くまでのことは覚えていますか?
村 上「スタンドを見上げたら、満員の4万人のお客さんだった。それまでの1Aの試合では観客は500人くらいですから、『ようけ入っとんなぁ』と思ったのを覚えています」
―内容はどうだったのですか?
村 上「打者4人に投げて、最初の打者は初球を外角低めのストレートでストライクを取り、最後もストレートで見逃しの三振。次の打者にはセンター前にヒットを打たれたが、後続を三振とショートゴロで無失点に抑えた。確か5番からの打順でしたが、当時はどんなバッターなのか、凄い選手なのか、全然わからなかった。スコアボードにも名前はなく、背番号とポジションが表示されるだけ。相手打者に対して、先入観がなかったのがよかったのでしょう。とにかく自分のピッチングをしようと思い、捕手のサインにも首を振りました。ベンチに戻るとナインから『ナイス ピッチング!』と握手攻めにされたものです」
―背番号10はエース級の番号ですね。
村 上「実は急な昇格でまだユニホームが間に合わず、お古だったのです。試合前、ロッカーにたくさん掛かっていて、クラブハウスマンが南海ホークス1年目の背番号を調べていて、10番のユニホームを薦めてくれて決めたと思います。たまたまジャイアンツの選手に10番を付けている選手がいなかったのがよかった」
―ところで試合前の契約でドタバタがあったと聞いていますが。
村 上「ジャイアンツの試合前の練習が終わる少し前、ロッカーで英語の契約書を見せられて『これにサインしろ』と言われた。アメリカでは同一球団でもチームのクラスが変わる度に、契約し直すというルールがあった。日本では契約すれば1年間は一軍でも二軍でもプレーできた。そんなことは当時の私は知らない。父親から『わからない英語の書類にはみだりにサインするな』と言われていたから、『ちょっと待ってくれ』と。ジャイアンツとメジャー契約を結ばないと試合では投げられない、と球団の担当者からはせかされるし、試合開始は刻刻と迫ってくるし…」
―それは困ったし、焦ったでしょうね。
村 上「サインしない私にGMが部下をスタンドに行かせ、日本語と英語のわかる日本人を連れてきた。大リーグの組織や契約について説明をしてくれ、やっと納得してサインした。契約したのは試合開始の15分か20分くらい前だったと思います。(最終的にはしましたが)メジャー契約を拒否した選手は私が最初だったでしょう」
―そんな事情があったにもかかわらず見事なデビューでしたね。初勝利は1か月後ですね。
村 上「9月29日のヒューストン・コルツ45戦(現アストロズ)でした。4対4の同点の9回表からマウンドに上がった。6回くらいからブルペンでピッチング練習をしていたが、まさか同点の9回に出番が回ってくるとは思っていなかった。変化球を勝負球に使って9、10、11回を内野安打1本に抑えると、11回の裏にマテオ・アルーがサヨナラホームラン。アルーにとってはその年の第1号だった。サヨナラ本塁打だったので、残念ながら初勝利のボールは手元にありません」
―どんな気持ちでしたか?
村 上「日本人で初めて大リーグで勝利投手になった、という実感が湧いてきたのはホテルに戻ってから。ジッとしておれず父親に国際電話したのを覚えています。翌日、球団事務所に顔を出すと給料が出ていた。メジャーリーガーになったので、年俸もアップ。1Aでは月給が400ドル(当時は1ドル360円)。そのころのメジャーリーガーの最低年俸は7500ドル。私は9月から約1か月メジャーでプレーしたから、7500ドルを日割り計算してもらいました。たしか1250ドルくらいだったと思います」
―次回は帰国後の契約問題のトラブルについてお聞きします。(続)