「ONの尽瘁(じんすい)」(12)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

王貞治の巨人監督就任2シーズン目は61勝60敗9分け。辛くも5割は死守したものの、前年に続く3位に終わった。指揮官は勝負をかけた3シーズン目に向け、1985(昭和60)年オフ、トレードやドラフトによる意欲的な戦力補強でチーム改革に乗り出し、コーチ人事の刷新でも大なたを振るった。
前年84(同59)年オフは守備コーチの変動だけだったが、86(同61)年シーズンに向けて「ヘッドコーチ新設」と「投手コーチ交代」という重要ポストの人事に着手。人材も巨人OBに限らず広く外部に門戸を広げた。
ただ、スンナリとはいかないところが優勝という「産みの苦しみ」にあえぐチームの表徴であるらしかった。当欄の初回にも記したとおり、「須藤ヘッド案」は本人の2軍監督希望であっけなく頓挫。「イエスマンになりがちだったコーチ陣にあって、忌憚なく意見を言える須藤さんのヘッドは適任といえたが…」。当時取材した球団関係者はそう言って須藤の転身希望を嘆いたものだった。
チームにおける首脳陣のあり方について、王には鉄則があった。「監督と選手との間には〝一線〟が敷かれていなければならない」。指揮官は選手と直接的に接することはせず、その間のコーチ陣が潤滑油となり、またあるときは車のショックアブソーバー(緩衝器)よろしく選手を管理、指導するというものだ。
80(同55)年に現役を引退した王は、監督に就任する前の3年間、助監督の任に就いていた。監督の藤田元司、ヘッドコーチの牧野茂とともに、3頭立ての馬ぞりに見立てて形容される「トロイカ体制」の一員として次期監督の帝王学や戦略を学びとるとともに、現役選手に一番近い存在としてそのアシストにも回れる機動的なポストだった。いわば「指揮官兼ヘッド」の職務を同時に積んだことで、「王監督」ではヘッドは無用と判断されたのかもしれない。
ところが、2年連続のV逸。その要因を探ると、一つには首脳陣と選手とのコミュニケーション不足があった。首脳陣が掲げる用兵の意図や戦術、戦略の狙いが十分に選手に浸透していたとは言えず、同じ方向を指すはずの「磁石」の針の向きが両者間で微妙にズレていた、と言う関係者もいた。
王が選手との間の一線にこだわり、選手との位置にまで降りて来ないなら、監督と選手とのパイプ役を担うヘッドコーチの存在は必須となった。
ヘッド格として王が想定していたのが、須藤だ。指導面では泣く子も黙る猛練習で知られる一方、グラウンドを離れたときの親分肌と相まって、ついたニックネームが「鬼軍曹」。そんな須藤なら「自分に対して遠慮なくモノを言ってくれるはず」。王がそうした画を描いたことは言うまでもない。
当時の王政権にとってスタッフ人選はかなりの「難問」だった。王に近づく人間は多かったが、王の方で信頼に足る人物として交遊関係を保つ存在は潤沢にいるわけではなかった。須藤に断られたヘッド職は、公私ともに王に最も近かった当時2軍監督の国松彰を充てることで補われた。さらに、守備コーチに土井正三、上田武司の2人のOBを用い、外野守備走塁コーチは廃止とした。
それ以上に、新体制の目玉となったのが投手コーチである。それまでの堀内恒夫は王にとって84年の政権発足時から同じ釜の飯を食う仲間だったが、投手陣の不整備を理由にわずか2シーズンで引責辞任となった。
チーム防御率がリーグ唯一の3点台(3.96)ながら、前年の3.66から悪化。先発陣は江川卓(11勝)西本聖(10勝)が2ケタをマークも、エース格としてお寒い限りだった。先発ローテをみても、抑え兼任で12勝7Sと成長の兆しをみせた斎藤雅樹を除き、加藤初、槙原寬己(ともに4勝)、カムストック(8勝)と明らかに1~2コマの不足は明らかだった。角三男、鹿取義隆ら救援陣の立て直しも焦眉(しょうび)の急だった。
王は堀内の後任として、政権初の外部招へいに動いた。白羽の矢を立てたのが、元南海の皆川睦雄だった。皆川といえば、野村克也らとともに南海ホークスの黄金期を支えた主戦。杉浦忠と並ぶアンダースローの名手として通算221勝をマークした。
76(昭和51)、77(同52)年は阪神1軍投手コーチとして、山本和行をリリーフエースに配置転換するなど指導者としての実績を着実に積んでいた。
王には現役時代、皆川に関して鮮烈な記憶があった。68(同43)年のオープン戦、南海対巨人で2人は対戦。皆川はこの試合で捕手の野村の協力を得て開発した、今でいう「カットボール」を王との勝負で試投、見事にどん詰まりの二飛に仕留めている。皆川はそのシーズン、新球を武器に31勝をマーク、最多勝のタイトルを手にした。そのときの対戦が、王に皆川の存在を改めて認めさせる端緒になった。以来、両者は名球会メンバーとしてイベントや会合で付き合いを深めた。東北出身者らしい粘り強さも、指揮官好みではあった。
やれることは、すべてやった。勝負の3シーズン目。周辺の好奇と不安のまなざしを浴び、王にとって「最大の試練」となる86年シーズンが、幕を切って落とそうとしていた。(続)