「ONの尽瘁(じんすい)」(13)―(玉置 肇=日刊スポーツ)
巨人監督・王貞治の3シーズン目の回顧を始める前に、その前年1985(昭和60)年の出来事で触れておきたいことがある。
王にとって、最愛の父との「別れ」である。
85年8月25日。チームは広島、名古屋と続く遠征の真っ只中にいた。その日は首位攻防をかけた広島との天王山3連戦の2戦目。試合を8-4で制した直後、球団フロントから王にその訃報が伝えられた。
王仕福、逝去ー。83歳だった。
球団は翌日の告別式に間に合うよう、王に帰京を促した。一度は「遠征は続くし、今帰るわけには…」と難色を示した王だったが、フロントや現場スタッフから強い勧めもあり、翌朝一番の航空機で帰京。告別式の後とんぼ返りで広島に戻り指揮を執る強行軍となった。
「人に迷惑をかけてはいけない。人のお役に立ちなさいー」。
幼い頃からきつく言われた父の「教え」を、いま一度かみしめたのかもしれない。
いかなる情も捨て去り、勝負の世界に生きる者としての責務の完遂と父の教えをかたくなに守ろうとする、その人柄が集約された行動だった。
王が現場にこだわったのも、無理はない。チームは8月下旬、重要な岐路に立っていた。頭1つリードしていた阪神に巨人と広島が追いつき、首位争いは三つ巴の様相。首位は日替わりで入れ替わった。
折も折、王巨人は前日24日の広島との初戦を3-1で勝利。待望の単独首位に立ち、さらに25日の連勝で首位としての地歩を固めようとした矢先だった。「さあ、これから!」。指揮官に機運や高揚感がみなぎったことは確かだろう。それでなくても、一本足打法の習得から「世界の王」としてのステータス確立まで、みずからを「厳しさ」で律して来た王のことだ。勝負に私情を挟み込み現場を離れるなど、考えられない営みに違いなかった。
それでも…と、私は思う。
父の存命中に巨人監督としての初優勝を見せられなかったその「悔やみ」は、別れを期に少なからず王に宿っていったのではないか?
その後の中日戦で大事な星を落とした巨人は、首位から脱落。9月に入ると優勝戦線からも離脱し、最終的に、阪神、広島の後塵を拝したことから、悔いはなおさら募った。
時を、その8年前に戻す。
77年9月3日、37歳の王が通算本塁打756号の世界記録を樹立する日。記録達成に備え連日後楽園を訪れていた父・仕福と母・登美はこの日も球場入りすると、差し入れの紙袋を2つ王に手渡した。その1つにはりんごが、もう1つには鈴虫が入れられていた。世界記録への喧噪をひととき忘れて「静かに音色を愉しんで」とでも願う両親の思いが、王には、ありがたかった。
現役時の勇姿に続いて指揮官としての歓喜を両親とともに祝えたら…。それは王にとって、父の名の響き同様「至福」の瞬間にほかならなかった。
王は巨人監督時代、球場入りする前に番記者を伴ってよく昼食を取った。好物は、中華料理店で生計を立てた父の影響から、麺料理。ときにラーメンだったり、刀削(とうしょう)麺だったり、そばだったりした。ラーメンのスープは、いとおしげに、一滴残らず飲み干した。記者たちが「おいしそうに食べますね」と話しかけると「そりゃ、ラーメン店のせがれだからね!」と笑った。
そんなシーンを回想するたび、ふと、思う。
王は、やっぱり、初優勝の「味」を、誰より、父に味わわせたかったはずだ、と。(続)