「記録の交差点」(15)-(山田 收=報知)
◎第15回 佐々木朗希④
前回まで佐々木朗希と野田浩司が築き上げた1試合最多奪三振記録を振り返ってきたが、延長を含めた最多記録はいくつなのか、という素朴な疑問が湧いた。調べてみると、1リーグ時代に遡る。
時は1938年秋シーズン、9月16日。イーグルス・巨人戦(甲子園)がその舞台。快記録を生み出したのは、イーグルス・亀田忠。オールドファンには懐かしい名前ではないだろうか。結論からいうと、5―5で延長14回日没引き分けに終わるのだが、9回まで13個、12回までに17個を奪い、14回2死二塁、最後の打者となった代打・三田政夫で20個目を記録したのだ。当時の巨人打線は、1番・三原修(のち脩)から白石敏男(のち勝巳)、千葉茂、中島治康、川上哲治と続く第1期黄金時代を支える顔がズラリ並んでいた。
亀田は、ハワイ出身の日系二世。1938年春からイーグルス・黒鷲で5シーズンプレー。通算179試合に登板して65勝78敗、防御率2.41。1940年、41年と2年続けてノーヒットノーランを達成している。伝えによると、剛腕投手ではあるが、それにふさわしく制球に難点があったらしい。いわゆる「三振かフォアボールか」というタイプだったようだ。1939年にはノーヒットに抑えながら、10与四球で1失点。勝利投手になっている。1940年にはシーズン297奪三振で当時のプロ野球記録を打ち立てた。
前置きが長くなった。今回は、佐々木がプロ14試合目に成し遂げた完全試合で、同時に64年ぶりにプロ野球記録を更新した13打者連続奪三振にスポットを当てる。
19奪三振ショーの1個目でもある初回2死、吉田正尚から5回2死、西村凌まで。取りも取ったり13個だが、当時の佐々木は、こんな述懐をしている。「三振は重視していない。完全にアウトになってくれるのはいいですが、3球以上かかっちゃうんで…」。3年目当時、井口資仁監督は、本人の体力面を考慮して、100球前後を目途にしていたという。本人もまた“球数制限”のなかで、いかに効果的な投球ができるかを考えていたのだろう。
だが、三振の山が築かれていく現実が、佐々木を変えた。当時も話題になったシーンがある。10個目をマークすることになる4回2死、吉田正尚の打席である。吉田は“三振しない男”の異名を取っていた。前年の21年、455打席で三振はわずか26だ。初球=この日2球目のカーブでストライク。2球目=連続カーブで空振り。3球目=フォークをファウル。4球目=フォークで空振り三振。遊びもなく、160㌔超の直球も使わず最強打者を連続三振させた。
この試合、マスクを被った松川虎生は「あそこが分岐点だった。カーブは(吉田が)予想したところじゃなかったでは。そして、その後のフォークに生きたかなと」と振り返っている。剛速球投手の違う一面をひきだしたルーキー捕手のインサイドワークが、プロ野球新記録、ひいては史上最年少の完全試合達成を導いたのだ。
実働2年目の大ブレークで期待値はさらに高まった佐々木だが、23、24年と不本意(ファンにとっても)なシーズンが続いている。コンディションが整わず、規定投球回数に届かない。当然、三振数も伸びない。奪三振率を見ると、21年=9.66、22年12.04、23年=13.35、24年=10.64。メジャー行きを訴える前にNPBで、これぞ佐々木朗希、を見せてと願うばかり。
次回はロウキが思い出させたレジェンドを紹介する。(続)=記録は24年8月26日現在=