「インタビュー」柴田 勲(3)-(聞き手・露久保 孝一=産経)
◎4球団の誘いから契約金の低い巨人を選ぶ
〈法政二高のエースとして昭和35(1960)年に甲子園夏の選手権で優勝、翌年春の選抜でも優勝し夏春連覇を達成した。同年夏の甲子園大会は準決勝で浪商と対戦、熱戦の末敗退する。甲子園優勝投手は、プロ入りでも注目された〉
―法政二高で大活躍したあと、プロ球団からは多くの入団誘いがあったでしょう?
柴 田「その当時、ドラフト制はなく、自由競争の時代だった。横浜市にある僕の家に4球団が来た。東映の水原茂さん、大洋の三原脩さん、巨人・川上哲治さん、南海・鶴岡一人さんです。水原さんは、フライヤーズのことを話さず巨人を褒めるばかりだった。三原さんは逆に、巨人の悪口ばかり言った。鶴岡さんと川上さんは、君はわがチームの戦力として期待している、ぜひ入団して欲しいと熱心に誘ってくれた」
―その4チームの誘いから、巨人を選んだのはどんな理由から?
柴 田「チームにおける新人選手の育て方などチームの方針、やり方を聞いてどのチームも立派だなと思った。結局、家族の希望もあって巨人に世話になることに決めた。契約金の提示は大洋が一番高かった。3000万円だった。巨人はその半分くらいだった。でも、お金の問題じゃないからね」
―巨人に入って、スタートは春のキャンプでした。入団した時は、どうでした?
柴 田「高校野球の夏の甲子園大会が終わったあと、僕はやんちゃじゃないんだけど、学校(法政二高)へ行かなくなった。それで学校から、卒業証書は出せないと言われた。『2月に4日間、授業に出てくれ』と指導された。巨人には、学期末試験があるのでキャンプに入るのは遅れます、と伝えて学校へ向かった。そのあと、2月8日僕の誕生日にキャンプ地に入った」
―自宅のある横浜から、汽車に乘って九州のキャンプ地に向かったのですか?
柴 田「当時、巨人軍はキャンプ地の宮崎に向かう場合は、東京から夜行列車の『急行高千穂』に乘って行っていた。僕は後からの合流だったので、ひとりだけ飛行機で宮崎へ向かった。宿泊地の『江南荘』に着くと、巨人の選手が誰もいない。選手たちは浴衣に丹前姿で、大広間に集合していた。僕は、赤いセーターとジーパンで部屋に向かった。障子をがらっと開けたら、みんなが一斉に僕の姿を見た。みんなポカーンとしていた。『なんだ、こいつは』という不思議な顔をしていた。こんな男は巨人にはいないぞ、というわけです」
―新人が巨人の先輩を驚かせて入団した、その時は気持ち良かったでしょう?
柴 田「驚かせちゃったけど、まんざらでもなかった。僕たちが高校生の頃は、石原裕次郎さんと長嶋茂雄さんがあこがれの的だった。なんとかっこいい男だろうと思っていたので、あんな時代の英雄になりたいという少年は多かった。僕もそのひとりだった。僕が巨人に入ると決まった時には、大きな夢に挑む気持ちが湧いてきたもの。巨人に入った時は肩が痛いのを忘れて、俺がエースになって、長嶋さんと王さんをバックに投げたいと思っていた…」(続)
≪しばた・いさお≫ 1944(昭和19)年2月8日、神奈川県横浜市生れ。法政二高でエースとして60年夏、61年春の甲子園で連続優勝。62年巨人に入団。この年0勝2敗で終り翌年から外野手に転向。スイッチヒッターになり「赤手袋」をはめて盗塁王を6度。通算579盗塁は現在もセ・リーグ記録。日本プロ野球名球会会員。