「インタビュー」柴田 勲(5)-(聞き手・露久保 孝一=産経)
◎1試合27球で勝利することが夢だった
-昭和37(1962)年、公式戦開幕第2戦の先発マウンドに柴田さんは立った。相手の阪神は村山実投手。前年に24勝している大投手との投げ合いになった。プロデビューはどうだったですか?
柴 田「あえなくKOされた(笑)。5回途中までに4点とられて降板、敗戦投手となった。そのあと、5月3日に広島戦に先発した。さらに、8月5日の中日戦で3度目の先発をしたが、またノックアウトされちゃったね」
-結局、投手として未勝利のまま終わった。『投手失格』の声も出たそうですが、どう感じましたか。
柴 田「そんな声はまったく気にならなかった。もともと巨人に入団した時から、右肩に不安を感じたままだった。体が元に戻れば大丈夫、投手でもできるという意識は強かった。でもね、川上監督から夏になって言われました。『柴田よ、肩が痛いならもう投手をやめるか』と。川上さんは、よく僕を見ていてタイムリーなアドバイスをくれた。だから、僕は前を向いて野球ができたと思う」
-投手としてもうここまで、となったのですが、もし投手を続けていたら、どんな投手になっていましたか?
柴 田「僕はマウンドに立ったら、27球で試合を終わらせるというピッチングの信条をもっているのです。完全試合は打者27人をパーフェクトに封じ込むことだけど、僕の目標はそうじゃない。僕は1人1球で仕留め、打者27人に対して27球で試合を終わらせる。これが、柴田勲の究極の投球術なのです。でも、夢と幻のまま、そんなチャンスは一度もこなかったね」
-投手から野手に転向となって、どのポジションを守ったのですか?
柴 田「投手から打者への転向はこうして決まりました。9月に、広島戦でショートで出場した。ショートはやったことがなかったので戸惑っていると、川上さんも『ショートはうまくなるまで時間がかかるから外野をやれ』と方向転換してくれた。それから、外野手としてやっていったわけです」
<公式記録によれば、野手として初先発出場したのはプロ2年目の昭和38(1963)年5月11日、後楽園での対国鉄(現ヤクルト)3回戦だった。1番・センターだった>
-柴田さんは2年目の早い段階から「1番センター柴田」となった。それからずっと、その形で…
柴 田「自分でもその打順と守備位置にはすぐに慣れ、気持ちがすごく積極的になれた。5月25日の広島戦では1番センターで先発出場して、長谷川良平さんからホームランを打った。これがプロ初ホームラン。なんと、2試合連続本塁打を放ったんですよ」(続)