「ONの尽瘁(じんすい)」(19)―(玉置 肇=日刊スポーツ)
米時間の1990年6月29日。ブルージェイズ戦でノーヒットノーランを達成したアスレチックスのエース、デーブ・スチュワートこそ、その4年前の86(昭和61)年の王巨人に必要欠くべからざる戦力の1人だった。実は2年越しで巨人の現地スカウトが獲得を狙ったのがこの右腕であり、86年は契約寸前までこぎつけながら日の目を見なかった経緯がある。
当時のスチュワートはレンジャーズからフィリーズに移籍。望んだ先発要員ではなくセットアッパー専任だった。その不満もあって他チームへ移籍願望を高めつつあった。巨人からのオファーはまさにそんなタイミングで行われた。しかも外国人選手獲得の相場が1年1億~2億円という当時にして破格の「2年総額6億円」の条件が提示され、交渉はトントン拍子で進んだ。
長嶋茂雄とならぶ「巨人の至宝」ともいえる王貞治を監督に迎えながら、84、85年と2年連続V逸。「これ以上〝世界の王〟に恥をかかせるわけにいかない」と球団フロントは政権3年目の「初優勝」に向け、資金に糸目をつけない大補強に動いた。スチュワート獲得はその一例だった。188㌢、91㌔の大型右腕からの豪速球とスプリットを織り交ぜた投球スタイルは日本球界での15勝以上を期待させた。球団幹部の中には「これで江川、桑田と並ぶ先発3本柱が完成するだろう」という者までいた。
ところが入団合意寸前、現地メディアの報道でスチュワートの「買春容疑」が露呈した。しかも相手が女装した男性だったことから、スキャンダルは過熱の一途をたどった。何よりスキャンダルを嫌う巨人の体質が詰めの交渉を許すはずはなく、獲得は断念に追い込まれた。
仮に巨人入りが実現していたとしても、スチュワートが日本球界に順応したかどうかはわからない。だが、この騒動後に移籍したアスレチックスで4シーズン連続20勝をマークした実績から推し量るに、日本での活躍も想像に難くなかっただろう。
王巨人は外国人投手の補強で出直しを余儀なくされた。それまで先発ローテとしての戦力を狙ったが、以降リリーフ強化にフォーカスが絞られた。前年85年のチーム成績3位は、勝負どころの9月以降で9勝21敗1分けと大失速したことによる。競った試合をモノにすべく角三男(現・盈男)、鹿取義隆の救援陣からつなぐ絶対的守護神の存在が喫緊の補強ポイントに切り替えられた。
そんな折、クローズアップされたのがエンゼルスでセットアッパーとして活躍しながら85年オフにエクスポズにトレードされ、次のシーズンの所属チームさえ確定していなかった、ルイス・サンチェスだった。エクスポズとはかねてクロマティの獲得でコネクションがあり、緊急を要す補強ながら無理が利いた。サンチェスの巨人入りは宮崎キャンプ中の2月上旬に正式決定。開幕まで「あと1カ月」を切った3月上旬、チームに合流した。ここに、巨人での表記名「サンチェ」は、球界でまだ珍しかった外国人ストッパーとして存在感を知らしめていく。
「スチュワートの代役」と言えばサンチェは気を悪くしたかもしれないが、その加入はチームに様々な影響をもたらした。あおりを受けたのがチームにもう1人いた外国人左腕キース・カムストック。入団1年目の85年は先発ローテを守り8勝を挙げたものの、「外国人出場選手は同時に2人まで」とする当時の規約から、スタメン確定のクロマティとストッパーのサンチェで枠は埋まり出番はほぼなくなった。86年はわずか3試合(0勝2敗)に登板しただけで解雇となった。
一方でその加入がプラスに働いたのは角、鹿取からサンチェに継投する「勝利の方程式」を完結させたことだろう。サンチェはベネズエラ出身で、当時33歳。いかつい風貌と187㌢、87㌔の堂々たる体躯(く)とは対照的にコントロールの良さを売りにしていた。ことに低めへの制球には定評があり、「一発はめったに食わない」というMLBのスカウティングレポートも報告されていた。確かにストッパーとしての素質は「適所」だったと言えようが、その切れやすく気難しい気性は巨人にあって果たして「適材」だったかどうか…。(続)