「インタビュー」柴田 勲(7)-(聞き手・露久保 孝一=産経)

◎女性用の赤いゴルフ手袋が僕を変えた

―赤い手袋はめたのは、どんなきっかけからですか?

柴 田「ベロビーチのキャンプで、ドジャースのコーチからヘッドスライディングの指導を受けたんです。自分は高校時代から投手だったから、ヘッドスライディングはやったことがなかった。ざぁーと滑ったら手のひらを擦りむいた。血が流れて、絆創膏を貼ったけど、バットは手が滑って握れなかった。それで、どうしようかな、と考えたんだ」

<1967(昭和42)年、巨人は米フロリダベロビーチで春季キャンプを張った。川上哲治監督は、フックスライディングだけの柴田の走塁のスキルの幅をひろげようとドジャースのコーチに指導を依頼した>

―手のひらをけがして、その時に手袋を思いついた?

柴 田「手袋といえば、ゴルファーがしている。あれはどうだろうと思った時、宿舎のそばにゴルフ場があった。ゴルフ場のショップに行って、まず男の手袋をはめてみると僕の手には大きかった。近くに女子選手用のものがあり、それがぴったりあった。ちょうど両手の赤い手袋があったのでそれを購入したんです」

―その手袋をすぐ野球で試したんですか?

柴 田「次のドジャー戦でさっそく使ってみた。大リーグの選手は手袋はめていないので、珍しい選手もいるもんだと僕を見てましたよ。その赤い手袋がすごく気に入ってね、日本でも使おうと決めた」

―日本での試合では、どんな風に使いましたか?

柴 田「最初は、一塁に出たあと、裏ポケットから取り出してはめた。そのうち、ポケットから取り出すのがめんどうくさくなって、打席に立った時から手袋をはめてバッティングするようになった」

―赤い手袋をしたバットからヒットとなれば、まさに、かっこよかったですね。テレビ中継でも柴田さんは人気があった。

柴 田「僕が手袋をはめて打って、盗塁して、スタンドから大きな拍手を浴びて、新聞でも取り上げられた。実際、僕が手袋をはめるようになるまでは、手袋をして野球をするという風潮はなかったからね。僕が「赤い手袋」をして走り回ったのは、その意味では、新聞の記事にしたがえば、時代の『ニューヒーロー』『風雲児』みたいな存在だったのでしょう」

―柴田さんの影響で、他の選手も手袋をはめるようになりました。

柴 田「僕が手袋はめて成功したので、他のプレーヤ-に刺激を与えたのは確か。僕が失敗していたなら、猫もしゃくも手袋をすることにはならなかったと思う。現役を引退したあと、テレビ中継を見ると、手袋をして打つ打者、手袋をした走者には特に注目しちゃいます。『赤の似合う柴田勲』ですから、巨人に入団した時の赤いセーターで、今でもこれはという会合には赤いポロシャツやセーターを着て出ています」(続)

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